2016年11月3日木曜日

7−3 混乱と革命

7−3  

要点
スペイン人はテキサスでアメリカ人の工作活動が活発になることを恐れた。
メキシコでは1810年、独立運動が高まった。
Fillibusters(フィリバスター)やrebels(反乱分子)がテキサスを支配しようとする。

重要ワード
Philip Nolan (フィリップ・ノーラン ムスタングハンター フィリバスター)
filibusters (フィリバスター テキサスに不正に入り、革命を扇動するアメリカ人)
Miguel Hidalgo y Costilla(ミゲル・イダルゴ・イ・コスティージャ)メキシコ独立の父
siege (包囲作戦)
Battle of Medina (メディナの戦い)
James Long(フィリバスター)

(時代背景)
ムスタング(テキサスの野生の馬)ハンターのPhilip Nolanはルイジアナからテキサスに入ってはムスタングを捕まえていた。スペイン人の役人は、フィリップがアメリカのスパイではないかと疑った。

Philip Nolanの探検

Philip Nolanは3回スペイン政府の許可のもとテキサスに入ってムスタングを捕まえ、ルイジアナに持ち帰っていた。ところがスパイとして疑われるようになり、許可が下りなくなった。1800年にPhilip Nolanは許可なくテキサスに入り、逮捕されそうになるが抵抗し投獄される。
スペイン政府はアメリカの拡大を懸念するようになる。
テキサスでは、filibustersの侵入に苦しめられる。filibustersとはテキサス領に入ってきて革命を扇動したり、混乱を起こしたりするアメリカ 人(兵士、探検家など)のこと

(質問)なぜ、スペイン政府はフィリップノーランのことをスパイかと疑ったのか。

メキシコの独立要請

1808年 フランス皇帝ナポレオンがスペインを侵略 スペイン王失墜 メキシコに影響
    Creoles メキシコ生まれスペイン人 (スペイン王を尊敬していた)と
    Peninsulares スペイン育ちのスペイン人 の間で緊張 
            メキシコのCreoles がスペインからの独立を求めるようになる。
1810年 Miguel Hidalgo y Costilla (ミゲル・イダルゴ・イ・コスティーヤ)神父 
     メキシコでPeninsularesからの独立運動
1811年 イダルゴ神父の涙の演説で5万人が蜂起するが、イダルゴは捕らえられ処刑
1811年 サンアントニオでは、スペイン知事を追放 ところが革命軍すぐに内輪もめ。
               スペイン軍が戻る。
(質問) メキシコ独立運動はテキサスの生活にどんな影響を与えたか。

テキサスに緑のメキシコ国旗がはためく

メキシコの独立運動に刺激され、テキサスでも独立を志す者が出てくる。その一人が José Gutierrez de Lara である。イダルゴの反乱が始まると、テキサスの独立運動家たちは、アメリカの支持を取り付け、イダルゴの死後もテキサスをベースとしてスペインからの独立をめざすようになる。

アメリカはこっそりと独立を支援。 Gutierrezはルイジアナで挙兵。アメリカの陸軍司令官Augustus William Megeeが副総司令官となる。メキシコ人とアメリカ市民で構成される軍隊の名前はRepublican Army of the Northとなる。

1812年8月、緑の国旗をたなびかせ、Migeeの軍隊はテキサスに侵入。NacogdochesとLa Bahila を占拠 でもスペイン軍により砦を包囲される。

4ヶ月間包囲しても、スペイン軍は砦を奪い返せず。
1813年3月、スペイン軍は、governerに率いられ、サン・アントニオに撤退。
Gutierrez軍は追いかけ、スペイン軍を撃退する。Governerも捕えられる。

Governer や反乱者(rebels) の囚人が残酷に処刑されると、それに動揺した多くの兵が軍を離れた。残った兵もGutierrezの指導力に不満を抱くようになる。

Joaquin de Arredondo将軍のroyalist army (王党軍)が南からテキサスに進軍。
1813年8月18日、ほとんどメキシコ人で構成された北部共和国軍と会う。
メディナの戦い(Battle of Media)
アレンドロの大勝利。1000人以上のrebels(反乱者)たちが戦死。
その後もアレンドロは、テキサスで復讐。何百人ものTejanos(テキサスに住むメキシコ系)を処刑か逮捕する。

リーディングチェック: 北部共和国軍にはどんな問題があったのか? その問題によって、軍はどんな影響を受けた?














7−2 アメリカ独立13州との争い

合衆国(=独立13州)との紛争

要点

北米における合衆国の発展は、スペインにとって脅威に映った。
テキサスとルイジアナの境界で紛争が起こる。

重要ワード

Louisiana Purchase ルイジアナ購入 1803年アメリカがフランスから購入
Neutral Ground ルイジアナ中立地 
diplomats 外交官
Adams-Onis Treaty アダムス=オニス条約  

時代背景

Bernardo de Galvez (ベルナルド・デ・ガルヴェス)はフロリダのイギリス砦をじっと見つめた。ここを攻め落とせばフロリダは再びスペインの領土になる。7000人の兵と35隻の船で攻撃したが、1600のイギリス部隊は手強い。1781年5月9日スペインの炸裂弾がイギリス軍の火薬庫に命中。激しい爆発が続き、フロリダは再びスペインのものとなった。

高まるアメリカ合衆国の脅威

Bernaldo de Galves (ベルナルド・デ・ガルヴェス)は1777年 スペイン領ルイジアナの総督(governor)となる。当時、13植民地がイギリスと独立戦争中で、スペインもイギリスに対して宣戦布告。1779年から1782年の間、スペイン系テキサス人(テハーノス)は10000頭の家畜を提供し、スペインは、イギリスからフロリダを奪還した。

1783年、アメリカ合衆国が独立を勝ち取った。スペインは独立に協力したものの、独立州の発展は著しく、スペインにとっての脅威となっていった。

合衆国の開拓者らは西に進出し、ミシシッピ川を超え、許可を得ずにスペイン領ルイジアナに進出。この地域にもテキサス東部にもほとんどスペイン人が住んでいなかったからである。

スペイン領の支配者たちは合衆国民のルイジアナ移住をしぶしぶ許可。テキサスはナコドーチスへの軍隊を強化し、外国人の侵入に備えた。ところが、不安は的中。スペインがルイジアナをフランスに返し、その3年後、フランスはこの地域をアメリカ合衆国に150万ドルで売却。この取引はルイジアナ購入(Louisiana Purchase)と呼ばれ、アメリカ合衆国の領土は倍増した。

質問) なぜ、スペイン領政府は、アメリカ合衆国をスペインの植民地への脅威と考えるようになったのか。

豆知識

独立戦争におけるガルヴェスの功績は戦勝のみではなく、その後スペインの代表として平和条約を結んだことにある。のちにアメリカ議会は独立における彼を功績をたたえ、この地域で最も大きな湾をGalvestonと名付けた。

テキサス内での国境紛争

ニュースペインは国境のすぐ向こうに急成長するアメリカ合衆国がきていることに警戒した。さらに悪いことには、その国境が曖昧だった。アメリカ合衆国政府は、ルイジアナはリオグランデまで含まれると主張したが、スペインはその意見に反対。ルイジアナは現在のカルカシュー(Calcasieu)川のArroyo Hondoだと主張。この意見の不一致が新たな戦争になることを恐れたスペインはテキサス東部に軍隊を配備した。

そうしているうちにも、アメリカの開拓者たちはどんどん西に移動してきた。1806年、アメリカの陸軍大尉 ゼブロン・パイク(Zebulon Pike) は、ルイジアナを探検中スペインの兵士に捕まり、ニューメキシコに送られた。スペインの司令官はパイクを解放することにした。パイクはメキシコ北部とテキサスを通って戻ったが、その時に見た獲物の数々、野生化した家畜やムスタング馬の群れのことを本に著した。彼の本によりアメリカ人は一層この地域に関心を持つようになった。

1806年後半、スペイン 軍とアメリカ軍は国境問題を話し合うために協議。紛争を回避するために、SabineとArroyo Hondoを中立地帯(Neutral Ground)とした。その国を代表する公務員を外交官(diplomat)という。

合意にもかかわらず、開拓者や不法者たちがたくさん、中立地帯に入ってきた。
1819年、スペインとアメリカはAdams-Onis Treaty アダムス=オニス条約を結び国境を確定。この条約により、アメリカはテキサスの領土主張を断念する代わりに、中立地帯とフロリダを得た。

質問)アメリカとニュースペインの紛争は続くと思いますか?それはなぜですか?

7−2の復習

1) 次の言葉を説明しなさい
  • ルイジアナ購入
  • 外交官

2)テキサスの歴史において重要な以下の点について説明しなさい。
  • ルイジアナ中立地帯
  • アダムズ=オニス条約

3)ルイジアナ購入後に起きた次の点について説明しなさい。
  • 紛争
  • 一時的解決策
  • 永続的解決策
4)要点
a. ルイジアナ購入はテキサスにどのような影響を与えたか
b.地図を見て、スペインがアダムズ=オニス条約で得た土地と失った土地はどこか

5)記述とクリティカル・シンキング
あなたはテキサスとルイジアナ間の国境問題を解決する外交官です。次の項目を入れて自分の経験について日誌を書きなさい。
  • 国境問題に関わる諸問題
  • 国境をどこに定めるべきか自分の意見












7−1 スペイン領テキサス内の変化

7−1 スペイン領テキサス内の変化

要点
  1. 1760年代、スペインはテキサスの大部分を放置
  2. 1770年代、新しい開拓地や新しい政策はアメリカンインディアンとの関係を改善。
(時代背景)
1754年、テキサスの北東でイギリスとフランスの戦争が始まった。イギリスとフランスはWichita族を味方につけようと銃を渡した。そして、銃で武装したインディアンはスペインにとって大きな脅威となっていった。

Marques de Rubiの報告書

1754年 オハイオ川流域の支配権をめぐり、フランスとイギリスが戦争を開始。フレンチ・インディアン戦争と呼ばれる。
1762年にはスペインも参戦。 フランスに味方。
1763年、パリ平和条約。フランスとスペインは領土をイギリスに割譲(cede)。フランスはカナダとミシシッピ川流域を、スペインもフロリダを、イギリスに割譲した。
スペインは敗戦国だが、フランスからニューオルレアンとルイジアナを譲り受け、国土が広がった。

スペイン王は新しい領土のことをより知るために、1766年にMarques de Rubiを送りテキサスを探検させた。
Marques de Rubiは2年かけて7000マイルを調査。La BahiaとSan Antonio以外は、伝道所も砦も困窮していて機能していないことが判明。
アパッチ族は改宗しない上にアパッチ族の敵のコマンチェ族がスペイン人を敵視していた。
フランスの脅威がなくなったため、テキサスの東部を防衛する必要もなくなっていた。
メキシコ北部の国境に100マイルごとに15の砦をおいて防衛線として

Marques de Rubiは、次のような報告書を作った。
  1. La Bahia(ラ・バイーラ)とサン・アントニオを除く伝道所と砦は閉鎖すべき
  2. Los Adaes の代わりにサン・アントニオとテキサスの首都とすべき
  3. テキサス東部に住むスペイン人はサン・アントニオに移住して防衛にあたる
  4. スペインはコマンチェ族と仲良くし、アパッチ族と戦う時に助けてもらう

テキサス政策の変換

Rubiの勧告はスペイン政府に認められ、1773年、統治領政府はスペイン人に テキサス東部から撤収するように命じた。しかし、それは簡単なことではなかった。すでにLos Adaes地方に住んでおり、アメリカンインディアンやフランス人に混じって、テハーノス(Tejanos スペイン系テキサス入植者)など何百人もの人々が住んでいたからだ。彼らは家、農場、牧場などを捨てて、この地を離れることを拒んだ。ところが、スペイン人の役人は断固としてこの地域に住むことを許さず、この地から住民を追い出した。サン・アントニオに移住する3ヶ月の道のりの間に命を落とすものもいた。

テキサスの首都となったサン・アントニオについても彼らの苦労は続いた。良い農場はすでに取られており、多くのものは故郷に帰りたがった。1774年、東部に戻る許可が出たがTrinity Riverまでであった。Antonio Gil Ybarbo(アントニオ・ヒル・イバルボ)が率いるグループは、現在のテキサス州マディソン郡にBucareliという町を作った。最初は栄えたものの、コマンチェ族の襲撃、病気、洪水などの問題が次から次へと起こった。

1779年、イバルボらは より東へ移住することを決意。Nacogdoches(ナコドーチス)の町を建てた。針樹林で囲まれたこの地はインディアンからの攻撃にさらされず、この地はルイジアナやインディアンとの交易で栄えた。

インディアンとの方針も転換した。無理に改宗させたり、スペイン市民にするのではなく、フランス人がそうしてきたように、贈り物を贈り、交易をして、インディアンと仲良くなった。
元フランス司令官Athanase de Mesieres(アタナーズ・ド・メジエール)が、インディアン政策の指揮をとった。彼は、インディアンとの交流の経験があり、数カ国語を話した。テキサスインディアンとすぐに連絡を取り、1770年代、メジエールは北部のいくつかの墓族と平和条約を結んだ。

スペインの新しい政策はうまくいったように見えた。1785年、スペイン人はコマンチェ族と平和条約を結び、銃などの毎年の贈り物の見返りに襲撃をやめると約束。平和は30年あまり続いた。

アパッチ族の攻撃は続いた。しかし1790年に、スペインの大軍隊がコマンチェ族、Wichita族などに加わり、サンアントニアの西、ソルダッド川で、アパッチ族に勝利。アパッチ族の力はかなり弱まった。

(質問)
1773年から1779年の間に、テキサス東部で起こったことを年表にしなさい。

7−1の復習

1) 次の言葉を説明しなさい
cede
Tejanos

2) 次の人物の業績を説明しなさい
Marques de Rubi
Antonio gil Ybarbo

3)Nacogdoches(ナコドーチス)の場所を地図で確認しなさい。

4)Rubiの報告書に書かれていたテキサスの問題と、スペインがとった解決法とは?

5)a.  Rubiが探検した理由は? 
      b. 1700年代後半、スペイン人とインディアンの関係はどのように変わったか?

6) スペイン人入植者の移住について、以下の点を入れて説明しなさい。
  • なぜ、テキサス東部の住民は移動しなければならなかったか。
  • 移動後に起こった出来事






2016年11月2日水曜日

第7章 帝国の争い

スペインは、伝道所や砦、開拓地を作って、テキサスを支配しようとした。しかし、フランスの脅威がなくなると、スペイン領政府はテキサスへの関心を失っていった。しかし、やがてスペインはスペインとメキシコを脅かす新たな脅威に直面するようになる。

年表
1763年 (世界)フランスとイギリスとスペインがパリ条約に調印。7年戦争が終わる。
1766年 (テキ)Marques de Rubi の探検が始まる。
1775年 (世界)アメリカ革命が始まる。
1779年 (テキ)Antonio Gil Ybarbo がテキサス東部でNacogdochesの町を発見。
1783年 (テキ)スペイン僧でテキサスの歴史の著者 Juan Agustin Morfi 死去
1789年 (世界)フランス革命始まる。
1791年 (テキ)アメリカ市民のPhilip Nolan、テキサスで野生馬の捕獲許可を受ける。
1803年 (世界)フランス、ルイジアナをアメリカに売却。アメリカ国土が2倍になる。
1810年 (世界)Miguel Hidalgo y Costilla神父のCry of Dolores メキシコ独立戦争へ
1819年 (テキ)アメリカ市民Jages Longの小軍隊、テキサスに侵入しスペインに敗北
1821年 (テキ)テキサスを含むメキシコ スペインから独立
1821年 (世界)ベネズエラもスペインから独立したラテン諸国に加わる