7−1 スペイン領テキサス内の変化
要点- 1760年代、スペインはテキサスの大部分を放置
- 1770年代、新しい開拓地や新しい政策はアメリカンインディアンとの関係を改善。
(時代背景)
1754年、テキサスの北東でイギリスとフランスの戦争が始まった。イギリスとフランスはWichita族を味方につけようと銃を渡した。そして、銃で武装したインディアンはスペインにとって大きな脅威となっていった。
Marques de Rubiの報告書
1754年 オハイオ川流域の支配権をめぐり、フランスとイギリスが戦争を開始。フレンチ・インディアン戦争と呼ばれる。
1762年にはスペインも参戦。 フランスに味方。
1763年、パリ平和条約。フランスとスペインは領土をイギリスに割譲(cede)。フランスはカナダとミシシッピ川流域を、スペインもフロリダを、イギリスに割譲した。
スペインは敗戦国だが、フランスからニューオルレアンとルイジアナを譲り受け、国土が広がった。
スペイン王は新しい領土のことをより知るために、1766年にMarques de Rubiを送りテキサスを探検させた。
Marques de Rubiは2年かけて7000マイルを調査。La BahiaとSan Antonio以外は、伝道所も砦も困窮していて機能していないことが判明。
アパッチ族は改宗しない上にアパッチ族の敵のコマンチェ族がスペイン人を敵視していた。
フランスの脅威がなくなったため、テキサスの東部を防衛する必要もなくなっていた。
メキシコ北部の国境に100マイルごとに15の砦をおいて防衛線として
アパッチ族は改宗しない上にアパッチ族の敵のコマンチェ族がスペイン人を敵視していた。
フランスの脅威がなくなったため、テキサスの東部を防衛する必要もなくなっていた。
メキシコ北部の国境に100マイルごとに15の砦をおいて防衛線として
Marques de Rubiは、次のような報告書を作った。
- La Bahia(ラ・バイーラ)とサン・アントニオを除く伝道所と砦は閉鎖すべき
- Los Adaes の代わりにサン・アントニオとテキサスの首都とすべき
- テキサス東部に住むスペイン人はサン・アントニオに移住して防衛にあたる
- スペインはコマンチェ族と仲良くし、アパッチ族と戦う時に助けてもらう
テキサス政策の変換
Rubiの勧告はスペイン政府に認められ、1773年、統治領政府はスペイン人に テキサス東部から撤収するように命じた。しかし、それは簡単なことではなかった。すでにLos Adaes地方に住んでおり、アメリカンインディアンやフランス人に混じって、テハーノス(Tejanos スペイン系テキサス入植者)など何百人もの人々が住んでいたからだ。彼らは家、農場、牧場などを捨てて、この地を離れることを拒んだ。ところが、スペイン人の役人は断固としてこの地域に住むことを許さず、この地から住民を追い出した。サン・アントニオに移住する3ヶ月の道のりの間に命を落とすものもいた。
テキサスの首都となったサン・アントニオについても彼らの苦労は続いた。良い農場はすでに取られており、多くのものは故郷に帰りたがった。1774年、東部に戻る許可が出たがTrinity Riverまでであった。Antonio Gil Ybarbo(アントニオ・ヒル・イバルボ)が率いるグループは、現在のテキサス州マディソン郡にBucareliという町を作った。最初は栄えたものの、コマンチェ族の襲撃、病気、洪水などの問題が次から次へと起こった。
1779年、イバルボらは より東へ移住することを決意。Nacogdoches(ナコドーチス)の町を建てた。針樹林で囲まれたこの地はインディアンからの攻撃にさらされず、この地はルイジアナやインディアンとの交易で栄えた。
インディアンとの方針も転換した。無理に改宗させたり、スペイン市民にするのではなく、フランス人がそうしてきたように、贈り物を贈り、交易をして、インディアンと仲良くなった。
元フランス司令官Athanase de Mesieres(アタナーズ・ド・メジエール)が、インディアン政策の指揮をとった。彼は、インディアンとの交流の経験があり、数カ国語を話した。テキサスインディアンとすぐに連絡を取り、1770年代、メジエールは北部のいくつかの墓族と平和条約を結んだ。
スペインの新しい政策はうまくいったように見えた。1785年、スペイン人はコマンチェ族と平和条約を結び、銃などの毎年の贈り物の見返りに襲撃をやめると約束。平和は30年あまり続いた。
アパッチ族の攻撃は続いた。しかし1790年に、スペインの大軍隊がコマンチェ族、Wichita族などに加わり、サンアントニアの西、ソルダッド川で、アパッチ族に勝利。アパッチ族の力はかなり弱まった。
(質問)
1773年から1779年の間に、テキサス東部で起こったことを年表にしなさい。
1779年、イバルボらは より東へ移住することを決意。Nacogdoches(ナコドーチス)の町を建てた。針樹林で囲まれたこの地はインディアンからの攻撃にさらされず、この地はルイジアナやインディアンとの交易で栄えた。
インディアンとの方針も転換した。無理に改宗させたり、スペイン市民にするのではなく、フランス人がそうしてきたように、贈り物を贈り、交易をして、インディアンと仲良くなった。
元フランス司令官Athanase de Mesieres(アタナーズ・ド・メジエール)が、インディアン政策の指揮をとった。彼は、インディアンとの交流の経験があり、数カ国語を話した。テキサスインディアンとすぐに連絡を取り、1770年代、メジエールは北部のいくつかの墓族と平和条約を結んだ。
スペインの新しい政策はうまくいったように見えた。1785年、スペイン人はコマンチェ族と平和条約を結び、銃などの毎年の贈り物の見返りに襲撃をやめると約束。平和は30年あまり続いた。
アパッチ族の攻撃は続いた。しかし1790年に、スペインの大軍隊がコマンチェ族、Wichita族などに加わり、サンアントニアの西、ソルダッド川で、アパッチ族に勝利。アパッチ族の力はかなり弱まった。
(質問)
1773年から1779年の間に、テキサス東部で起こったことを年表にしなさい。
7−1の復習
1) 次の言葉を説明しなさい
cede
Tejanos
2) 次の人物の業績を説明しなさい
Marques de Rubi
Antonio gil Ybarbo
3)Nacogdoches(ナコドーチス)の場所を地図で確認しなさい。
4)Rubiの報告書に書かれていたテキサスの問題と、スペインがとった解決法とは?
5)a. Rubiが探検した理由は?
b. 1700年代後半、スペイン人とインディアンの関係はどのように変わったか?
6) スペイン人入植者の移住について、以下の点を入れて説明しなさい。
- なぜ、テキサス東部の住民は移動しなければならなかったか。
- 移動後に起こった出来事
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