2018年6月18日月曜日

15-1 テキサス併合 The Annexation of Texas P314

要点
アメリカ合衆国との併合は、奴隷問題で意見が分かれた。
テキサスは1845年、アメリカ合衆国の一州になった。

重要単語
manifest destiny  マニフェスト・デスティニー 明白な使命
Jane McManus Cazneau
political parties 政党
joint resolution 共同声明
Convention of 1845  1845年の集会
Texas Admission Act テキサス州昇格法

時代背景
アメリカのジョン・タイラー大統領が就任したのは1841年、その数年後に国会はテキサス併合を否決。それ以来、イギリスがテキサスへの影響力を強めていた。タイラー大統領は、イギリスが北アメリカに拠点を作るのではと心配した。テキサス併合を再考する時期だ。

テキサス併合条約 The Treaty to Annex Texas

アメリカ合衆国への併合はテキサス国内でいつもホットな話題だった。ヒューストンは夢を諦めなかった。テキサス人もそれを望んでいた。しばらくするとアメリカ合衆国内からもテキサス併合に賛同する人たちが現れ始めた。

テキサス併合のネックとなったのが、奴隷問題だった。南部州は奴隷州を増やしたいため併合には賛成した。

ジョン・タイラー大統領は南部州出身だったので、併合に賛成だった。1843年、彼はテキサスに担当官を送り、交渉を再開した。併合の第一歩として、テキサスを領土にする交渉だった。テキサスの借金を帳消しにする代わりにテキサスはすべての公地を合衆国政府に差し出すというものだった。

タイラー大統領の協定は国会からも国民からも大反対にあった。ニューヨークでは3000人規模のデモが起き、1844年6月に否決された。

国会で否決された後も、併合に賛成の国民はいた。彼らは、アメリカ合衆国が西に拡大していくことに熱心だった。西をチャンスの土地とみなし、農業や貿易が経済成長をもたらすと考えていた。アメリカ合衆国は太平洋まで拡大すべきで、テキサスもその一部という考えだった。この信念が、マニフェスト・デスティニー(明白な運命 manifest destiny)である。

合衆国銃で、新聞はテキサスを州にすることに賛成していた。例えばコラムニストのJane McManus Cazneauの書いた記事で北部の人々の考えも変わっていった。

リーディングチェック
あなたは併合に賛成ですか? 自分の意見の説明をしなさい。

併合決議 The Annexation Resolution

テキサス併合とマニフェスト・デスティニーの問題は1844年の大統領選の争点だった。2つの政党(Political parties)が選挙を争った。

民主党( the Democratic Party)は、テネシー州のジェームス・ポークJames K. Polkを大統領に指名。Polkは、テキサス併合に賛成していた。彼のライバルは、ウィッグ党(Whig party)、ケンタッキー州出身のHenry Clay。最初、Clayは併合に反対だった。メキシコを敵に回すことになるなるからだ。ところが南部州の票も欲しかった彼は、曖昧なメッセージを送るようになる。その結果、ポークPolkが勝利した。

タイラー大統領も国民も、ポーク大統領の勝利は、テキサス併合への兆候とみた。

タイラー大統領は国会に共同決議 (joint resolution)を通過させるように要求。一般の協定は上院の2/3の承認が必要だが、共同決議は過半数で通過させることができるからだ。

1845年2月、タイラー大統領の任期が切れる3日前に、国会はテキサスを併合する共同決議を採択した。

リーディングチェック
ポークの選挙が、どのようにテキサス併合に影響したか。

テキサス、アメリカ合衆国に入る Texas Enters the United States

共同決議は、それまでの併合協定よりも、テキサスにとって好条件だった。
領土(territory)ではなく、1つの州としてアメリカに加わることのができた。公地も維持できた。しかし、公地の一部や軍備は借金返済のためにアメリカ合衆国に渡さねばならなかった。

1845年 テキサス大統領のアンソンジョーンズは、アメリカ合衆国からの併合の申し出を話し合うための集会を開いた。これを1845年の集会(the Convention of 1845)という。

アメリカの州になるためには、テキサス国民が正式に併合を認める必要があった。テキサス人は独立国であることに誇りを持っていたが併合にも意義を見出していた。テキサス人のほとんどがアメリカ合衆国の出身で、商業的つながりがアメリカと強く、州政府はテキサスを守ってくれると思ったからである。10月13日、テキサスは併合を4,254対267で可決した。同時に新しい州憲法を承認。1845年12月29日ポーク大統領はテキサス州昇格法(Texas Admission Act)に署名した。テキサスはアメリカ合衆国の28番目の州になた。

リーディングチェック
ほとんどのテキサス人が併合に賛成した理由は?


第15章 テキサス、アメリカ合衆国に加わる (1845-1860)

14−3 共和国の最後の数年 The last years of the Republic P303

要点

  1. 1844年、アンソン・ジョンズAnson Jones がテキサス共和国大統領に選ばれる。
  2. ジョーンズ時代、テキサス人はアメリカとの併合をより一層求めるようになる。

時代背景
1844年12でヒューストンの演説
テキサス・メキシコの戦争は回避した。 1842年以来、メキシコからの侵略はない。囚人は一人を除いて皆帰還した。経済は回復している。ヒューストンは次期大統領にも彼の方針を継承してもらいたいと思っていた。

アンソン・ジョンズ大統領 President Anson Jones


次期大統領を誰にするかという議論は白熱した。1844年の選挙で、テキサス共和国は分裂した。新聞は両候補の激しい批判を書きたてた。エドワード・バールソン副大統領 Vice president Edward Burleson とブラゾリア出身の医師でサンジャシントの英雄でもあるアンソン・ジョーンズAnson Jones の戦いだった。アンソン・ジョーンズはヒューストン政権下で国務大臣を務めていた。

アンソン・ジョーンズはヒューストンの政策を支持しており、バールソンはヒューストンの政策に反対だったのでラマールの支持者から支持された。

結果は、アンソンジョーンズの圧勝。多くの国民がラマールの政策を批判していたので、ラマールに支持されたことがバールソンの足かせとなった。副大統領はKenneth Andersonが選ばれた。

アンソンジョーンズ大統領は共和国の経済問題に取り組んだ。共和国は建国当時から赤字で、ラマール時代に赤字が膨らんだ。ヒューストンが立て直しを試みたが1942ねんと43年の綿花の不作で経済は復興しなかった。

ジョーンスは、国家支出を削減。テキサスのアメリカン・インディアンとの和平を試みた。アメリカ合衆国との併合が現実味を帯びてくると通貨の価値が上がってきた。1845年までには、アメリカ合衆国との通貨と同じくらいの価値となり、豊作年には貿易高も増え、テキサスの景気は良くなっていった。

テキサス人、併合について議論する Texans debate Annexation

アンソン・ジョーンズ大統領はアメリカ合衆国との併合にも積極的だった。1936年の建国時、テキサス人も併合に賛成したが、ヒューストン政権は賛成でも、ラマール政権は反対だった。

国務長官として、アンソン・ジョーンズはヒューストン政権時代に併合などのテキサスの外交を緻密に計画していた。1843年の新聞では、「大多数の国民は併合に賛成」と書かれた。

就任直後の数ヶ月は、ジョーンズは併合については公言しなかった。テキサス人ははっきりした答えをもとめもどかしく思った。どんどん多くの国民が併合を求めるようになった。しかし、ジョーンズは、併合か独立かの選択肢を持っておくべきだと考えていた。それは、メキシコから独立の承認を得て、メキシコと和平関係を結べるかどうかにかかっていた。

メキシコと交渉を望むテキサス人はほとんどおらず「メキシコの目的は嘘をつき我々を欺くこと。政治家はだませても、テキサス人はだませない」と1845年の新聞には書かれてあった。そのうちに、メキシコがテキサスの独立を認めそうだという話がはるようになってきた。テキサスは独立を保つか、併合をめざすか、再び議論し始めた。

リーディングチェック
ジョーンズ大統領が、併合の決断を遅らせたのはなぜか。













2018年6月17日日曜日

14-2 メキシコとの紛争 (Conflict with Mexco) P297

要点
ラマール大統領は、サンタフェをテキサスに加えたいと望む
メキシコ軍はテキサスを時々襲撃した。
1845年、メキシコはテキサス共和国を承認した。

時代背景
サンタ・アナはワシントンDCに囚人とした送られ、アンドリュー・ジャクソン大統領に面会した後、メキシコに帰る。1839年には国政に復帰、テキサス奪回を決意する。

サンタフェ遠征

当時、テキサスとメキシコの国境は確定していなかった。1836年の共和国国会では国境をリオグランデ川と確定したが、そうするお、メキシコの国土は半減する。ニューメキシコに住む人々はメキシコに忠誠を誓っていた。

ラマール大統領は任期中、リオグランデ川東部の人々が、自分の土地がテキサス共和国のものであると認めるように、サンタフェの住民を3人選び、周りの人々を説得させる。

ラマールはテキサス・サンタフェ間の貿易路を整備。
1841年6月、サンタフェ探検を実行。320人、20万ドルの輸出品とJose Antonio Navarroなどの有名人をHugh Mcleed率いるテキサス軍が護衛した。

この大遠征は開始直後からトラブルに見舞われた。アメリカン・インディアンの襲撃、食糧不足、疲れ果ててニューメキシコに着いた先にはメキシコ軍が待ち受けていた。

1841年10月、テキサス人は逮捕され、歩いて1200マイル離れたメキシコシティへ連れて行かれた。「歩けなくてフラフラになった男をメキシコ兵が射殺するので、こんな遠くまで歩くしかなかった」と生き残りの一人が証言している。テキサス人は翌年の4月まで投獄される。

唯一のメキシコ系テキサス人(テハノス)のホセ・アントにオ・ナバロは、テキサス革命でテキサス側についたことで、裏切者として死刑宣告。他のテキサス人よりも長い間投獄される。しかし、その後、脱獄し、テキサスに逃げ戻り、1845年、テキサス併合集会にギリギリ間に合い、唯一のテハノ代表として署名する。

ラマールのサンタフェ遠征は失敗だった。
60人以上のテキサス人が命を落とし、大金を失い、メキシコがまたテキサスに関心を持つようになり、テキサスとメキシコの紛争が再燃した。

リーディングチェック
ラマールがメキシコ遠征をした理由は?そして失敗した理由は?

テキサス海軍 The Texas Navy

1840年 メキシコのユカタン州がメキシコ政府に対して反乱。ラマールはこれを好機と見る。ムーア提督Commodor Edwin W. Mooreの海軍を送り反乱を支援。ひと月8000ドルを得る。
ヒューストン2期目が1841年から始まると、ヒューストンは海軍を戻し、財政支出を引き締め、軍艦をガルベストンに戻して、売却することを命令。ガルベストンの住民は売却に反対。軍艦は売られることはなかったが、可動することもなくなった。

古文書戦争 The Archives War

ラマールの行動に起こったメキシコ政府は1842年3月、Rafael Vasques将軍率いる軍隊で三・アントニオを攻撃。同年9月には、Adrian Woll将軍と1400人の兵士がサンアントニオを占領。10人の子供を持つ住民Mary Maverickが当時の様子を書き記す。

砲弾の音ので目を覚ました。霧が晴れると囲まれていた。

Woll将軍は数人の捕虜をとってサンアントニオの奥へ進軍。Jack Coffee Hays が率いる自警団がWollとSalad Creekで会戦。メキシコまで押し返す。Haysはいまでも、勇気、能力、忠誠心でテキサスレンジャーの鑑(かがみ)として認められている。彼はその後、米墨戦争でも大活躍する。

ヒュースオンは1842年12月、テキサスレンジャーズに命じ、古文書をワシントン・オン・ザ・ブラゾスに移すことを指示。オースティンの住民は、自分の都市が首都でなくなることを恐れ反対。Angelina Eberlyらは、古文書を馬車に移そうとしている作業員に発砲。この紛争は古文書戦争と呼ばれ、その後、古文書はオースティンに残る。

ミエル遠征 The Mier Expedition


1842年11月、ヒューストンはアレクサンダー・サマヴェル将軍 General Alexander Somervellをリオ・グランデに、Woll将軍に捕まった人質を取り戻しに行かせる。

サマヴェルがリオグランデ川についた時、彼は任務遂行に必要な十分な物資や人員がないことに気づいた。彼は300人の兵士に帰還を命じたが、フィッシャー大佐Colonel William S Fisherと兵士たちはその命令に背き、メキシコを侵略。Mierという小さな街にむかった。これはミエル遠征と言われる。

12月23日、テキサス軍は、ミエールに入り、物資を要求。街の人は翌日提供することに合意した。翌日物資が供給されないと、テキサス人は街を襲撃。そこには、900人のメキシコ兵が待ち構えていた。戦いが1日続いたあと、100人のメキシコ兵と30人のテキサス兵が死傷した。物資不足で、テキサス側は降参した。

捕らえられたテキサス兵はメキシコシティまで行進させられた。200人は途中で脱走したが、食料もなく、山々を歩き、ほとんどは死ぬか、再び捕らえられた。再び指導者隣っていたサンタ・アナは10人に一人を射殺することを命令。176名の囚人から1割が豆で選ばれた。生き残りの証言によると、白い豆をひいたら放免。黒い豆は死。黒い豆を挽いたものは目隠しをして銃殺される。18人が脱走。20人が獄死。他は放免。1844年9月にはミエール遠征の囚人を全員釈放した。

ミエル遠征はメキシコとテキサス共和国の最後の戦い。イギリスとフランスの努力でメキシコとテキサスの関係は少しずつ回復した。ヨーロッパ諸国がテキサスを支援するのには理由があった。ヨーロッパ諸国はテキサスがライバルのアメリカ合衆国の一州になるよりは、独立していて欲しかったのだ。そのため、ヨーロッパ諸国はテキサス併合を必死になって阻止した。もしも、メキシコがテキサスの独立を認めれば、テキサスがアメリカへの併合を求めなくなると考えたのだ。

1845年春、イギリスとフランスの外交圧力で、メキシコはついにテキサスの独立を認める。その見返りに、テキサスもアメリカへの併合はしないことになった。

メキシコの指導者たちも提案の内容に同意。ヨーロッパ同様メキシコも、テキサスの併合を阻止したかったからだ。メキシコはアメリカ合衆国と国境を接するのは避けたかった。しかに、テキサスの独立を認めた頃には時すでに遅し。テキサス住民はアメリカ併合を心に決めていた。

リーディングチェック
テキサスがどの国にも併合しないことは、メキシコにとってどんな意味があったのか。







14-1 テキサスの国家承認 (Foreign Recognition of Texas) P294

要点

  1. テキサス共和国はメキシコとの戦争の脅威を減らすために外国からの国家承認をめざす。
  2. 多くのテキサス人はアメリカ合衆国との併合を望む。
  3. 数カ国がテキサスの独立を認める。
時代背景
テキサスの旗艦船インデペンデンス号がニューオリンズから帰港中トラブルに遭った。メキシコの戦艦と会い、戦いになり、外交官のWilliam H WHartonとすべての船員は捕らえらてしまった。メキシコが独立を認めるまで、テキサスに安全がこないことは明らかだった。

テキサス国家承認を追求する (The Quest for Texas Statehood)

テキサスとメキシコの関係が、テキサス共和国の外交(foreign relation)の要となる。メキシコはテキサスの独立を認めず、メキシコにとってテキサスは反乱中の州に過ぎなかった。テキサスはこの問題を解決しないと、前述のインデペンデンス号のようなトラブルが起きる。もし、外国諸国がテキサスを国として認めればメキシコも認めざるを得なくなり、戦争の危険も減るだろう。最も大切なことはアメリカ合衆国の外交承認(deplomatic recognition)を得ること。

ヒューストンはそれ以上のものを望んだ。テキサスがアメリカ合衆国の一つの州になることをめざした。それはヒューストンの選挙公約でもあった。しかし、アメリカはテキサスを併合することには消極的だった。共和国の存在を認めることすらためらった。アンドリュージャクソン大統領は国会で、テキサスの独立を認めたらメキシコが起こって戦争になる」と警告した。

アメリカ合衆国がテキサスを併合したがらない理由はいくつかあった。
メキシコを怒らせると戦争になるかもしれない。アメリカの北部臭は、奴隷州を増やすことに激しく反対した。

当時、ワシントンDCに送られていたワートンWilliam H Whartonは、ヒューストン大統領に次のような報告をしている。
「独立は認められるだろう、でも、併合される望みはあまりない。併合についての激しい議論がすでに始まっている。」

ワシントンで併合の議論がされているころ、ジャクソン大統領はHenry Morfitをテキサスに派遣してテキサス共和国の状況を調査した。モーフィットの報告は、国会承認すべきではない、というものだった。理由は人口が少なすぎ、借金が多すぎ、承認すればメキシコを敵に回すことになるから、というもの。テキサス共和国が存続するかどうかすらわからなかった。

外国からの国家承認

ワートンは正しかった。モーフィットの報告に反し、アメリカ合衆国は公的にテキサスの独立を認めた。1837年、アンドリュー・ジャクソン大統領は、任期の最後に、テキサス担当相を任命。テキサスも代表者をワシントンに送る。

ワートンの予想通り、合衆国はテキサス併合には反対。これにはテキサス人は皆失望した。しかし、テキサスの指導者達は正式な外交ルートが合衆国と結べれば、貿易や借金がしやすくなり、テキサスの経済が良くなるり、移民が増える、と考えた。

ヒューストンは、テキサスの立場を強固にするために、他の外国とも国交を結ぶことに尽力した。
1837年、国家樹立のためJames Pinkney Hendersonをヨーロッパに送った。
1839年、フランスがテキサスを承認。英国、オランダも続く。
ラマール大統領は金と脅しでメキシコと交渉をしたが、メキシコはテキサスの国家承認を拒否し続けた。

リーディングチェック 
テキサスを独立国と認めたのはどの国か?







第14章 テキサス 外国からの圧力を受ける(1836年ー1845年)

13-3 当時のテキサスの生活 (Texas Life) P286

要点


  1. テキサス共和国のほとんどの人々は農場か牧場に住んでいたが、街に住んでいる人もいた。
  2. 狩り、文学、芸術がレジャーだった。
  3. 協会や学校が社交センターだった。


酪農業 町、そして、移動手段 (Farming, Towns, and Transportation)

テキサスの農場主は大農場主もいたが、ほとんどが小規模で奴隷はほとんどおらずいても数人で、悔恨、家づくり、植え付け、牧場作りなどは自分で行い、自給自足の生活をしていた。商品咲くものとして、とうもろこし、綿花、ライ麦、大麦を作っては売ることもあった。

牧場主は、動物を育てて、自分で使ったり、他のテキサス人に売ったりした。食肉や獣皮(hides)や他の物品を売った。Taylor Whiteといったような大牧場主は、ニューオリンズに家畜を売りに行くこともあった。

町も発展した。ヒューストン、ガルベストン、ダラスなどでは、土地の投機家(Land speculators)が大きな土地をかって、小分けにして売って儲けを得ていた。しかし、買い手が払えないと損をした。テキサス人は現金を使わない習慣があったので、簡単ではなかった。

共和国時代の移動は道路が悪く、天候が悪い時はもっと大変だった。川が使われた。
1840年までにブラゾス側、コロラド川、トリニティ川で蒸気船が行き来し、綿花や農産物を移動した。しかし、蒸気船に向いた川はテキサスにはほとんどなかった。

交通手段が整備されていないことが、テキサスの商業発達を遅らせた。

レジャーと文学と芸術 (Leisure, Literature, and Art)

テキサス人の生活は仕事だけではなかった。様々なレジャーがあった。仕事のような楽しみもあった。例えば、新規開拓者のための家づくり、丸太切りコンテスト、狩り、釣りなど。
またコンサートや競馬、演劇などの芸術も楽しみ、ラマールは詩人で、スランスの画家Theodore GentilsはテキサスにHenri Castroと来た。

教会と学校 

テキサス革命後、ローマカトリック教会以外の宗教も認められることになった。プロテスタント派(Protestant denominations) の教会が数多く作られた。その中でもメソジスト教会(Methodist Charch)が最大宗派。次にバプティスト教会、長老派(Prebyterians)教会、聖公会(Episcopalians)が続いた。ユダヤ教のシナゴーグも作られた。

教会などは、宗教や社交センターとしての役割があった。日曜学校の他に、教会は様々な催しを開いた。国境付近では、馬に乗った巡回牧師(Circuit riders)が奉仕した。

教会は学校も経営した。Rutersville Collegeはメソジスト教会によって1480年に設立された。現存する中で最も古いBaylor Collegeはバプティスト教会によって1845年に設立された。

公立学校があったのはヒューストンだけ。しかも1840年代に開校したり閉鎖したりを繰り返した。他の地域には、私立のアカデミー(academy)を建て、高校レベルの教育を行った。







2018年6月15日金曜日

13-2 ヨーロッパからの移住者 (European Immigration to Texas) P282

テキサス中央部のドイツ系移民


1830−1840年、ヨーロッパからの移民が急増した。最も多かったのはドイツ系、

1842年、ドイツ経済界は移民会社Adelsvereinを設立。 ヒル・カウンティの土地を取得、移民会社はCarl of Sorems Braunfels王子と農民、工芸人をテキサスに送る。

カール王子は港を作り、1845年にNew Braunfelsの町をGuadalupeとComal川に沿って作る。

王子がドイツに帰った後は、John O. Meusebach男爵が後を継ぎ、町はより栄えた。

ドイツ移民会社は7000人をテキサスに送った。今でもヒル・カウンティのあたりにはドイツ系の名前の町や町並みがよく見られ、名前、建築、教会、食べ物、言葉などで、ドイツ系の文化の名残が残っている。

他のヨーロッパ系移民

1840年、テキサスはフランスと条約締結。テキサスはフランスからの移民を受け入れるようになる。フランス国内ドイツ語圏のアルザス地方からの移民が多かった。2000人以上が入植した。

アイルランド人は1820年代からオースティンと入植をしていた。アラモ、ゴリヤド、さんジャシントで戦ったWilliam Kennedyが書いた本、The Rise, Progress, and Prospets of Republic of Texas という本を出版。1850年までにアイルランド系移民は1400人にのぼった。

母国の経済や政治が原因でテキサスに渡った ポーランドやチェコからの移民もいた。ほかの移民と同じように、独自の文化を残した。



13-1 テキサス人の生活 (P278)

要点
  1. 移民により、テキサス共和国の人口激増
  2. テキサス内のアフリカ系アメリカ人はほとんどが奴隷。しかし自由アフリカ人も苦労
  3. テハノやアメリカン・インディアンは、差別を受ける。

人口増加(A Growing Population)

革命前に焼き払われた土地に人々が戻ってきた。
1836年に52700人(うち22700人はインディアンかテハノ)だったのが、10年間で10万人増加した。

最も多かったのが東部のアメリカ合衆国から土地と機会を求めてやってきた入植者だった。
南部からの移住者はテキサス東部か海岸部や、さらに内陸部のレッドリバーの方に移住した。

アフリカ系アメリカ人 (African American)

南部からの移住者は、奴隷を連れてきた。
1836年憲法では奴隷は合法だった。1836年には5000人だった奴隷の数は、1845年には30000人に増えた。

奴隷の生活は過酷だった。綿畑での長時間労働、結婚も財産を所有することも不可能だった。

自由アフリカ系アメリカン人もテキサス革命後は差別を受けた。1836年憲法では、自由人であってもテキサスに住むには共和国の許可が必要になった。

1840年、議会は自由アフリカ系アメリカ人のテキサス入国を禁止。すでに住んでいる人も2年以内に出て行くように命令

テキサス革命の時に戦果をあげたGreenbury Loganも退去の危機に。人々が請願(petition)をして、1840年にAshworthが制定され、テキサス独立前からテキサスにいた自由アフリカ人は居住が認められることになった。

共和国内のテハノス (Tejanos in the Republic)

共和国内には何千人ものテハノス(ヒスパニック系、メキシコ系 テキサス人)が住んでいた。ほとんどが、サンアントニオやグアダループ側の南側に住んでいた。テハノスも特にアメリカ合衆国からの移住者から敵意を持たれていた。 アメリカ合衆国からの移住者はテハノスをメキシコ人とみなしていて、メキシコは敵だと思っていたからだ。テキサス革命に協力したテハノスですら差別を受け、Juan Seguinの元に似て撃た。

1838年、ナコドチェスでVicente Gordovaが率いるテハノスがインディアンと共に蜂起 これをコルドヴァ反乱(Cordova Rebellion)という。彼らはアングロ系住民を追い出そうとするが、ヒューストンがこの反乱を抑えた。コルドヴァはメキシコに逃走。逮捕された33人は反逆者として裁かれる。その後釈放されるも、アングロ系テキサス人はテハノスを迫害。100家族以上を追い出す。

テハノスでも権力の座を維持したJose Antonio Nabarroなどは、テハノスの権利擁護に尽力。テハノスたちは差別を受けながらも、キリスト教、伝統的料理、メキシコの祝日といった自分たちの文化を守り続けた。

リーディングチェック 
テハノスが共和国の生活に失望した理由は?

テキサスのインディアン

この時期、テキサス国内に住んでいたテキサスのインディアンの人数はわからない。定住していないし、東部から追われてきた部族が住んでいたから。

アフリカ系アメリカ人や、テハノス同様、インディアンたちも差別された。

12-4 ヒューストンの第2期 (Houston's Second Administration) P271

要点


  1. ヒューストンは第二期政権中に赤字削減と、インディアンとの和平を目指す
  2. Regulator(規制者) とModerator(仲介者)がテキサス東部で反目し合う

ヒューストン再選

1841年の選挙はヒューストンとバーネットの戦いだった。
インディアン政策、無価値な貨幣redback、膨れ上がる赤字で、ラマール政権に不満を持っていたテキサス人はヒューストンを選び副大統領にEdward Burlesonを選んだ。

ヒューストンは、借金を減らして均衡予算(balanced budget)を目指した。就任後、公務員とテキサスレンジャーを削減した。政府の支出は480万ドルから50万ドルに減少。それでも、赤字は変わらず、共和国の借金は1845年には1200万ドルに成ってしまった。

通貨供給問題を解決するために、redbacksに変わる紙幣を発行したが、テキサス人はもはや紙幣を信用しなくなっていたため新紙幣もすぐに価値が下落した。

ヒューストンはインディア和平政策をとった。通商条約や、平和条約を結んだ。
1842年8月にカド(Caddo)族が調印 他の20部族にも説得
1843年3月には9部族(Caddo,Tawakonis, Wacoなど)との話し合いが行われた。
1844年10月 議事堂の虐殺のことが許せないペナテカ・コマンチェ族とヒューストンが話し合い。Treaty of Tehuacana Creek条約が結ばれる。和平と通商の合意はしたが、コマンチェとの境界線は定めなかった。

レギュレーター モデレーター 戦争 (The Regulator-Moderator War)

テキサスのインディアンとの関係は改善したが、テキサス東部のShelby郡では諍いが起こっていた。Redlandsと呼ばれるこの地域は中立領域(Neutral Ground)に接し、警察の力が弱く、多くの強盗や犯罪者などのならず者が居付く無法地帯だった。

1840年、アルフレド・ジョージ(Alfred George)とジョセフ・グッドブレッド(Joseph Goodbread)の間で、偽の土地証明書のことで争いが起こった。ジョージの友人の無法者のCharles Jacksonがグッドブレッドを殺害し、規制者(レギュレーター)という一団を結成。それに対し、グッドブレッドの仲間は、仲介者(モデレーター)を結成。反目し合い、暴力もざらだった。

地元の役人も争いを止めることができず、戦いは激化。どちらのグループも何百人にもなった。

1844年 ついに、ヒューストンの指示で、軍隊が出動。両グループの指導者を逮捕して戦いは幕を閉じた。






12-3 ラマール大統領時代 (Lamar's presidency) P265

要点

  1. 大統領として、ミラボー ラマールはテキサスに公立学校を設立する。
  2. ラマール政権は財政危機に見舞われる
  3. ラマール政権はアメリカン・インディアンに対し厳しい政策をとる。
Linnvilleという街がコマンチェ族の襲撃に遭う。1000人のコマンチェ族が街を襲い、住民を殺害し、馬を奪い、街を焼き払った。この襲撃は、平和協定の前に起こった虐殺の復習だった。

ラマール就任

1838年の選挙では憲法に再選が禁止されていたため、ヒューストンは出馬できなかった。でもできていたとしても当選していなかったかもしれない。多くのテキサス人がヒューストンの政策、特に、インディアン政策に反対していたのだ。

1838年、ミラボー・ラマール(Mirabeau B. Lamar)が新大統領に、デイヴィッド・バーネット(David G. Burnet)が副大統領に選ばれた。二人とも、ヒューストンの政策には大反対で、個人的に彼のことを敵視していた。革命の英雄であるラマールは、元詩人で教育に強い関心を持っていた。彼は教育法を可決させると、公立学校のために土地を確保し、大学を将来創設するための土地を確保した。

初めて設立許可書(Charter)を政府からもらったのは私立大学のRutersvillle College。1840年に創立する。しかし、テキサスは資金不足で公立学校も公立大学も設立することはできなかった。しかし、その努力によってラマールは今でも「教育の父」として知られている。

新しい首都

ラマール政権下で首都はオースティンに決まった。ヒューストンは東すぎるとラマールは判断。メキシコの侵入に対応するため西の方、そして、西への発展も目指し、首都を移転した。

Edwin Waller判事もオースティンに到着、一時的な国会議事堂(Captol)も建った。

この移転に不満の声もあった。離れているために守りにくいし、そこはコマンチェ族のテリトリーだったから襲撃に遭いやすいというものだった。

オースティンの辺境は危険だったが、人々の移住が進むと街は発展した。フランス、イギリス、アメリカの外交官も住むようになった。

土地・経済政策

ラマール政権はヒューストンの政策を継承。1839年1月に国会は入植者保護法(Homestead Law)を通過。借金があっても、家と最大50エーカーの土地は保障する、といったものだった。債権者がテキサス人から借金のかたに家を取り上げ売ることを防ぐことができた。

この政策により、ラマール政権下でテキサス共和国の財政は一層悪化した。軍事費などの歳出は増えたのに、歳入は増えなかったため、財政赤字が倍増した。

政府はredbacksと呼ばれる新紙幣を発行した。ところがすぐに価値が下落、3年後には紙切れ同然となってしまった。

リーディングチェック
ラマール政権中の財政問題とはどのようなものだったか。

ラマールのアメリカン・インディアン政策

ラマールはアメリカンインディアンを憎み、テキサスから追放したいと思っていた。ヒューストンとは異なり、インディアンに土地の権利などないと考えていた。

1836年 ラマールはチェロキー族にテキサス内から出て行くように命令 Kelsey Douglass率いる500人の兵との数日間岩たるNechesの戦いの後には100人以上のチェロキー族が死んでいた。その中にはBowles酋長もいた。Caddo族やShawnees族もこの時期、テキサス北東を去った。

コマンチェ族との戦いも激化した。1839年1月、ラマールはテキサス西部にJohn H Moore大佐を送り、テキサス西部のコマンチェ族を攻撃。アパッチ族や他の敵からも攻撃を受けていたコマンチェ族の一派ぺナテカPenateka族はサンアントニオに赴きテキサス人の人質を返すことに同意。

1840年3月19日、約65人のペナテカ・コマンチェ族がサンアントニオの議事堂に到着したが、人質を数人しか連れてこなかった。他の人質は、ほかのコマンチェ族に取り押さえられていたのだ。インディアン社会を理解しないテキサス人は、コマンチェ族を捕虜に。議事堂の中で戦いが始まった。戦いが終わると、35人のコマンチェが新dねおり、その中には12人の酋長、3人の女性、2人の子供が含まれていた。テキサス人も7人死亡。この議事堂の戦い(Council House Fight)によって平和は遠のいた。

ほかのコマンチェ族はこの虐殺を聞いて激怒。捕虜を殺害し、LinnvilleやVictoriaを襲撃し、20人以上の入植者を殺害し、家を焼き、家畜を奪った。

テキサス人は復讐を要請。自警団や兵士、テキサスレンジャーが戦いに臨んだ。コマンチェを1840年8月11日に発見攻撃 このBattle of Plum Creek で130人以上のコマンチェが殺された。テキサス側の死者はひとり。

リーディングチェック
ラマールのアメリカンインディアン政策は? ラマールが達成したかったこととは。

ラマール政策の結果

インディアンとの戦いの勝利の後も、テキサス人はコマンチェ族のことを恐れた、そのため、テキサスの指導者達は、コマンチェをもっと遠くまで追い払うことにした。10月ムーア大佐は、コロラド川の300マイル上流まで攻め、コマンチェの村を見つけ急襲して破壊した。この戦いで、130人のコマンチェが死亡。コマンチェはより西に逃げ、メキシコ人の村を襲うようになっていった。

ラマール政権末期には、ラマールの目標通り、チェロキー族をテキサス東部から追放、コマンチェ族も北部や西部に追放した。投機家や入植者はより多くの土地と安全を得ることができて満足だったが、アメリカン・インディアンにとっては災難だった。

この時期、戦費によりテキサスの借金は、330万ドルから800万ドルに増大した。

リーディングチェック
ラマールのインディアン政策が、アメリカン・インディアンや共和国に及ぼした害とは?





2018年6月14日木曜日

12-2 ヒューストン第1期

要点

  1. 大統領として、サム・ヒューストンは内閣(cabinet)を創設
  2. 問題は、軍の規律、借金、公地
  3. ヒューストンはテキサス内のアメリカン・インディアンの権利を守ろうと努力。

ヒューストン政権

1836年10月22日
初代大統領にヒューストンが就任
アメリカン・インディアンとの平和的関係
メキシコからの攻撃対策
合衆国への併合を目指し、内閣を組閣
財務大臣 ヘンリースミス (Henry Smith)
防衛大臣 トーマス・ラスク (Thomas Rusk)
国務大臣 スティーブン・オースティン
しかし、12月27日に、オースティン病死。テキサス人はテキサスの父の死を悼む。
最高裁判官 ジェームス・コリンスワース(James Collinsworth)が任命された。

テキサスの国境を定める (Defining Texas)

ヒューストン就任時、テキサスには明確な国境がなかった。
国会はリオグランデ川を国境と主張。しかしメキシコは認めず、Nueces川の南や西に住む多くの人も自分はメキシコに住んでいると考えていた。

共和国には首都が定まってなかった。ヴェラスコは革命時の暫定首都で、Columbiaに移転するが小さすぎた。そこで、1837年ヒューストンという小さな街が首都に決まった。1837人は12人しか住民がいなかった街が、4ヶ月後150人が住むようになった。

公約した通り、ヒューストンは合衆国への併合を目指すが、合衆国側はテキサス併合に興味を示さず、独立国としては認めた。

ヒューストンと軍

国境を定めている頃、軍の内部で新たな問題が発生していた。
合衆国からテキサス革命のために義勇兵がどんどんテキサスに到着したが、ときすでに遅く、すでに革命は終わっていたが、何か行動を起こしたがっていた。戦争が終わっても、メキシコへの敵意を持ち続けていた。その一人が、Felix Huston司令官。彼はメキシコ侵略を主張。ヒューストンは危険すぎるとして、より穏健なAlbert Sidney Johnstonと交代させる。この決定で怒ったHustonは決闘で、Johnstonは怪我をし、任務につけなくなる。他の司令官は、自分の兵に首都まで行進させ「大統領にお仕置きを、国会解散、テキサスに法を」と叫ばせた。ヒューストンは600の武装兵士を解雇した。

国境防衛では、ヒューストンは自警団に任せた。1835年に結成された自警団だが、軍隊とのトラブルが多かった。

1836年1月につくられたテキサス海軍も問題が多かった。修理費をテキサス共和国は払えず、リバティー号はニューオリンズに。他の船もニューヨークに没収されてしまい、インヴィンシブル号はメキシコに破壊され、ブリュータス号は嵐で沈んでしまった。

経済政策

新共和国には深刻な財政問題があった講話国の歳出(expenditures)は歳入(revenue)を大きく上回っており、赤字が125万ドルもあった。増税、公地売却するも足りず、合衆国から借金をした。

1837年、合衆国で恐慌が起こり、テキサスも不況になる。

テキサスは製造業が弱く、輸入が多く、資金が国外にでていった。そこで、政府が貨幣をより多く印刷したが、それが元でインフレになり、共和国紙幣の価値は暴落した。

土地政策

金は無くても土地が豊富なテキサスで、土地収得のガイドラインが作られた。アフリカ人やインディアンを除いた家長は4606エーカーが与えられ、17歳以上の男子がいれば、1476エーカーが追加された。革命で戦ったテキサス人にはボーナスで土地が与えられ、1836年以降に来た義勇兵らも少し与えられた。

テキサス政府はこれらの土地で経済が立ち直り、税収が上がることを期待した。メキシコのエンプレサリオ方式で、移民の入植を促進し、450万エーカーを入植者らに分配した。

ヒューストンのアメリカンインディアン政策

ヒューストンはアメリカンインディアンと共存ができると確信していた。分配された土地の一部はもともとアメリカンインディアンの土地だったことから紛争が始まった。革命時、ヒューストンはチェロキー族の土地の確保を約束していたが、その約束は議会で否決されてしまった。

その決定にチェロキー族が怒ったため、ヒューストンはBowles酋長に手紙を書いた。すると次は入植者たちが怒った。

1836年5月、コマンチェ族と甲斐大和族が、パーカー砦(Fort Parker)を攻撃し、住民34人を殺害され少女を含む5人が捕虜になる。テキサス人が西に広がるにつれて、平原インディアンとの抗争が激しくなっていった。

抗争を減らし、平原のテキサス人を守るために、ヒューストンと国会は、アメリカンインディアン政策を発展させた。砦を作り、交易を推進した。ヒューストンはこの改革で両者の関係が改善することを望んだ。

ヒューストンはアメリカンインディアンとの共存を望んだが、ほとんどのテキサス人は反対し、インディアンがいなくなることを望んだ。

12-1 初期の共和国 (The Early Republic)

要点

  1. ヴェラスコ条約(Treaties of Valasco) によって、メキシコはテキサスの独立を認めることになったが、条約は守られなかった。
  2. テキサスは最初の国政選挙を1936年に実施した。

ヴェラスコ条約 (The Treaties of Velasco)


サン・ジャシントの戦いの勝利によって、テキサスは自由な共和国になった。テキサス共和国は、1836年から1846年の10年間続いただけだった。共和国設立当初はテキサス国内にメキシコ軍がまだ駐留していたが、サンタアナは命と引き換えにメキシコ軍の撤退を約束した。

テキサスの暫定首都ヴェラスコで、テキサスの暫定大統領バーネット(David G. Burnet)とサンタアナは2通のヴェラスコ条約(Treaties of Velasco)に署名した。1通の条約は一般公開用のもので、次のように書かれていた。

  1. メキシコとテキサスの戦争は終結し、テキサスは独立した。
  2. サンタアナはテキサスに対して兵を挙げない。
  3. すべてのメキシコ軍はリオグランデ川以南に
  4. 囚人は釈放
  5. メキシコは奪った財産を返す。
  6. サンタアナをメキシコに戻す

2通目の条約は秘密にされており、サンタアナがメキシコ人の指導者たちにテキサスの独立を認めるよう説得することが約束されていた。

条約に署名がされると、Filisola将軍はすぐに撤退。でも、テキサス側は枠速を守らずサンタアナをすぐにメキシコに返さずに、ワシントンDCへ連れて行った。その表向きの目的はメキシコとテキサスの永続的平和のためだが、成果はなかった。

同様にメキシコ政府も約束を守らなかった。サンタアナは一人の囚人で大統領ではないため、条約は無効とし、テキサスの独立を認めなかったのだ。

リーディングチェック
ヴェラスコ条約の効果がほとんどなかった理由は?

1836年の選挙

テキサス共和国のもう一つの課題は新政府の体制作りだった。1836年憲法では指導者は選挙で選ばれることになっていた。同時に、テキサス人は1836年憲法を承認するか、また、アメリカ合衆国への併合(annexation)を進めるか決めることになっていた。
大統領選にはテキサスの英雄たちが立候補した。スティーブン・オースティン、サム・ヒューストン、ヘンリースミス。
その中でも一番人気があったのは、サン・ジャシントで功績のあったサム・ヒューストンだった。

ヒューストンが大多数の票を得て当選。副大統領に選ばれたのは、同じく、サン・ジャシントの英雄ミラボー・B・ラマール(Mmirabeau B Lamar)。大多数のテキサス人が、1836年憲法を承認し、合衆国との併合を求めた。

リーディングチェック
1836年テキサス人が選んだのは誰?



11-5 独立を勝ち取る (Independence Is Won)

要点

  1. テキサス人はメキシコ軍から逃げるため「過酷な逃走(The Runawas Scrape)をする。
  2. テキサス軍はゴリアドで降参するが、数日後、サンタアナの命令で虐殺される。
  3. テキサスはサンジャシント(San Jacinto)の戦いで、独立を勝ち取る。

過酷な逃走 (The Runaway Scrape)

1836年の協議会でサム・ヒューストンは正式な指揮官になったものの、兵も武器も弾薬も金もなかった。彼は兵を組織して訓練を始めた。

3月6日、ヒューストンは、ワシントン・オン・ザ・ブラゾスを発ち、ゴンザレスに向かった。その時、彼はまだアラモがどうなっているのか知らなかった。3月11日に、ゴンザレスに到着し、アラモの敗北の知らせを受けた。彼は、偵察隊を送り、アラモで何が起こったのか、そして、サンタアナがどこにいるのかを探った。翌日、偵察隊は生き残りのスザンナ・ディケンソンをゴンザレスに連れてきた。ヒューストンとその軍は、アラモを防衛した者たちの最期を詳細に聞いた。

テキサス人はサンタアナがゴンザレスに向かっていることも知った。当時、ヒューストンの軍は400人以下。メキシコ兵は700人以上。ヒューストンは撤退を命じた。ゴンザレスに住む市民も、メキシコ軍がこれ以上物資を得ないように、コンザレスの街を焼き払い、軍隊とともに、荷物をまとめて逃走した。

アラモの噂はテキサス中に広がっていった。身の危険を感じたテキサス人はメキシコ軍の追撃から逃れるためにアングロ系の入植者たちもアフリカ系の奴隷も、テハノス(日スマpニック系テキサス人)も、農場や家を捨てて東に逃げた。天候が悪く、大雨の洪水の中、多くが命を落としながら、「過酷な逃走」をした。

ゴリアドでファニン降伏 (Fannin’s Surrender at Goliad)

ゴンザレス付近で、テキサス人がサンタアナから逃走している頃、テキサス南部では、マタモロス(Matamoros)ですでに勝利したJose de Urrea将軍と550の小隊が、Rio Grande川を渡り、沿岸に沿って進軍していた。

サンタアナがアラモを包囲している頃、メキシコ軍のウレラ将軍はレフュジオ(Refugio)に進軍し、3月14日のレフュジオの戦いで勝利。テキサス軍は数時間防衛した者の、武器と弾薬が切れ、捕虜となった。ウレラは次の目標をJames Fannin大佐のいるゴリアドに定めた。

3月14日、ファニンはヒューストン将軍から、ヴィクトリアへ撤退するようにという命令を受け取った。ファニンはすぐには行動せず、レフュジオからの兵を待った。捕虜になってしまっていることを知らなかったのだ。ウレラはゴリアドに急ぎ、3月18日、フェニンはゴリアドでウレラと交戦。ファニンはゴリアドの砦を離れ、ヴィクトリアに向けて北東に向かった。

3月19日 テキサスの部隊は、濃霧の中、ゴリアド郊外の草原を進んでいた。少し休んで気がつくと、ウレラの軍に包囲されていた。ファニンの兵は300人。メキシコ軍は300小隊。戦うしか選択したなく、コレト・クリーク(Coleto Creek)のそばで戦った。

コレトの戦いで、草原で包囲されたテキサス軍は身を守るものもなく身動きができなかった。テキサス軍はどんどん増強していった。怪我をした上に数で勝てず、ファニンは降伏することを決意。テキサスの兵士たちはゴリアドに連れて行かれた。

捕虜たちはゴリアドで1週間過ごした。記録には「ウレラは捕虜の扱いに寛大だった」と書かれている。ウレラはサンタアナに、捕虜を殺したくないと手紙を書くが、サンタアナの返事は明確で、メキシコ政府に戦いを挑んだ者は即刻処刑、というものだった。

3月27日、メキシコ軍は、400人以上のテキサス人をゴリアド郊外で射殺。この「ゴリアドの虐殺( Goliad Massacre)から混乱の中逃げた数人を、メキシコ軍と旅をしていたFrancita Alavezが逃走を助け、のちに、ゴリアドの天使と呼ばれる。

リーディングチェック
ファニンが降参する原因となった、地理的要因とその他の出来事とは。

ヒューストン 兵の準備をする

ゴリアドのニュースを聞いたテキサス人は激怒し、テキサス軍に加わるようになった。兵士の数は1200人に増えたが、ヒューストンはメキシコ軍と戦うには、まだ人数も装備も足りないと確信し、戦いを避け続けた。サンタアナがテキサス内を進む中、ヒューストンは兵を東に進めた。

テキサス軍内の部隊のいくつかは、撤退を続けるヒューストンを批判した。

ヒューストンは批判を無視。サンタアナが、サンフェリペの基地に近づいていると聞くと、彼は兵を20マイル北のJaret Grocesのプランテーションに移し、実戦訓練をする。兵は物資弾薬を集めた。合衆国からも支援があった。オハイオ州のシンシナティの市民は大砲2台を送った。

4月12日、ヒューストンの軍隊は、グロースのプランテーションを離れ、6日後、南東のハリスバーグ(Hurrisburg)に到着した。ヒューストンの偵察隊はサンタアナと一部の軍がブラゾス川を渡り、ハリスバーグから遠くないところで野営をしていると報告。ヒューストンは決意した。「サンタアナと戦う準備をしている。テキサスを救うのは今しかない」と友人に手紙を書いた。 サンタアナとの最後の戦いの舞台が整った。(戦場の地図はP249)

サン・ジャシントの戦い

ヒューストンの軍は、ハリスバーグに到着した。そこからバッファロー・バイユーを下り、サン・ジャシント川についた。4月20日、テキサス軍は、目の前に草原が広がる高台の樫の木立で野営をした。メキシコ軍が攻めるには草原を渡らねばならない位置だ。

その夕方、サンタアナとその軍は、バッファローバイユーとサン・ジャシント川の交わるところにつき、その危険な場所で陣を敷いた。サンタアナの兵は身を守る者がないのに対し、テキサスの軍は木立に身を隠すことができた。

サンタアナは小隊を送り、テキサス軍を追い払おうとするが、テキサス軍は反撃した。テキサス軍の騎兵がメキシコの騎兵を攻撃するが追い払われた。一進一退を続ける内に、コス将軍が540以上の兵と共に到着。

テキサス軍は、1200人以上のメキシコ兵と戦うのは困難だと気付き、会議を開く。議論の末、その午後に攻撃することを決定。

ヒューストンは、900人の武装兵をあつめた。その中にはJuan Seduin やテハノスの小隊もいた。午後3時。テキサスは森から草原に出た。メキシコ兵に見られないように進んだ。メキシコ兵の多くは壁を築いたあとで、攻撃を予測せず、寝ていた。多くのメキシコ兵は銃撃と「アラモを忘れるな!」「ゴリアドを忘れるな』という怒号で目が覚めた。サン・ジャシントの戦いはたったの18分だった。多くのメキシコ兵は逃走したり、降参しようとしたが、テキサス軍は銃撃を続けた。銃撃が止んだ時、630人のメキシコ人が殺されていた。テキサス側の死者はわずか9人。ヒューストンはそのうちの一人で、足首の骨がライフルの弾で砕けた。

交戦中、サンタアナは姿を消したが、翌日、沼に隠れているのが見つかり捕虜となった。サンタアナは副官に手紙を書くと、メキシコ軍の反撃は止まった。テキサス軍はサン写真との戦いに勝っただけではなく、戦争に勝ったのだ。ヒューストンはサンタアナの処刑に反対した。

1836年のサン・ジャシントの戦いはテキサス革命は終了した。テキサスはメキシコからの独立を勝ち取り、テキサス共和国が生まれた。

リーディングチェック
サン・ジャシントの戦いの成果とはなにか。

11-5 テスト対策





11-4 1836年の協議会 (The Convention of 1836) P240

要点

  1. 1836年の協議会で、テキサスの独立を宣言
  2. 1836年の憲法で、テキサス共和国( Republic of Texas)の最初の政府が設立される。

テキサス、独立を宣言 (Texas Declares Independence)


1836年の協議会は、同年、アラモが陥落する前日、3月1日にワシントン・オン・ザ・ブラゾス(Washington on the Brazos) で始まった。アメリカの元議員、サム・ヒューストンや、メキシコの元議員、Lorenzo de Zavalaを含む59人が集まった。

協議会はすぐにメキシコからの独立を宣言。1836年3月2日、代表団は全会一致にテキサスの独立宣言を採択。テキサス中にそのコピーが配布された。

独立宣言を書いたのは、George C Chidress  アメリカの独立宣言を基にして作成。1824年憲法で保障されていた権利を否定するサンタアナ政権への不満を並べた。テキサスはメキシコの一部でいることにもはや耐えられなかった。

独立宣言に署名した59名のうち、56名はアングロ(白人)系、2人はテハノス(ヒスパニック系)のAntonio Navarro と Jose Francisco Ruiz そして 一人のメキシコ人Lorenzo de Zavalaだった。独立宣言の採択をもって、テキサス共和国が誕生した。テキサス人は今でも、3月2日を独立記念日として祝う

リーディングチェック
1836年の協議会が最初に取った行動とは?なぜ、その行動をとったのか。

1836年憲法(The Constitution of 1836) 

独立宣言採択後、代表者たちは、サンアントニオのアラモに向かおうとしたが、サム・ヒューストンは残って憲法を作るべきだと主張。

1836年協議会のほとんどがアメリカ合衆国生まれだったので、憲法も合衆国憲法を基に作られた。政府は、立法府(legislative)、行政府(exective)、司法府(judicial)に分立。アメリカ合衆国と同じようにテキサス共和国も国民主権(Popular sovereignty)を基本としていた。所有権に関してはスペインやメキシコの影響が残っていた。

メキシコからの独立を宣言することで、協議会は、テキサスの政治的独立も主張した。テキサス共和国憲法の中には、権利章典(=誰にも奪えない人権保障規定)が含まれている。表現の自由。信教の自由。不法に逮捕されない自由、公教育や定住者への土地供与も保障した。

新憲法は奴隷制を認めていた。アフリカ人やアメリカン・インディアンは議会の許可なく市民にはなれなかった。テキサスに残ることを希望する自由奴隷は政府に請願(petition)をしなければいけなかった。最初の請願者はSamuel McCulloch Jr. ゴリアドで1835年の革命時に負傷した元奴隷である。

テキサスは戦争中だったために、政府も暫定(ad interm)政府だった。正式なリーダーは選挙で選ばれることになったが、暫定大統領として、David G Burnetが知事に、Lorenzo de Zavalaが副大統領となった。彼らは1832年3月17日にWashington-on-the-Brazosで就任したが、メキシコ軍が迫ってくるということで、Harrisburgに移り、そこからもすぐに逃げた。場所を移しながら、暫定政権はSam Houstonとその軍に暫定政府の未来を託した。


11-4 テスト対策

11-4 要点



11-3 アラモの戦い (The Siege of the Alamo)

要点

  1. 1836年の初め、メキシコ軍がテキサスに進軍。当時、テキサス軍はまだ十分組織されていなかった。
  2. テキサス軍は、サンアントニオのアラモ布教所に立てこもることにする。
  3. アラモの防衛軍は命を賭けて、メキシコの攻撃に耐えようと必死で戦う。

メキシコ軍 進軍 (The Mexican Army Advances)

1836年1月、サンタアナは自ら6000人の兵士を従え、サンアントニオに進軍していた。同時に、メキシコ軍の将軍José de Urrea はメキシコ湾に沿って、ゴリアドに向かって進軍していた。

テキサス軍はまだ準備ができていなかった。ウレアはすぐにマタモロスに向かっていたテキサス兵に勝利、捕虜とする。

マタモロスに向かっていなかった残りのテキサス軍はばらばらで、James Neilli 大佐(colonel)は、100部隊(troop)をサンアントニオに持つのみ。James Fannin大佐はゴリアド(Goliad)に400人の兵士を持っているだけだった。

サム・ヒューストンは、テキサス軍がまだ形をなしていないことに警戒していた。彼はジム・ボウイをサンアントニオに送り、様子を探らせた。ヒューストンは、アラモ布教所を破壊し、大砲を撤去するように勧めたが、スミスは反対。アラモは防御力を高めており、砦として使えると主張。テキサス人はコス将軍が置いていった武器を持っていた。

アラモは交通の要所でも待った。

1836年1月19日、ジム・ボウイはアラモに到着。21台の大砲は破壊するには惜しく、ここを渡すぐらいなら死んでもいいとスミスに手紙を書く。

スミスはこの手紙を受け取ると、ウィリアム・トラヴィス(William Travis)大佐を送り、アラモを増強。しかし、トラヴィスは30名の志願兵しか集めることができなかった。

アメリカの志願兵が少しずつ入って(trickled into)きた。Davy Crockettは12人のテネシーからの義勇兵を連れてきた。 James Bohham はアラバマから。Neilli大佐は病気の家族の世話のためアラモを離れ、トラヴィスを司令官に任命するが、トラヴィスとボウイは指揮を巡って仲違いし、それぞれが指揮をとることで合意した。


リーディングチェック

アラモを守るというボウィの意見にあなたは賛成ですか?反対ですか?理由を説明しなさい


籠城作戦開始

メキシコ軍が近づき、テキサス兵はアラモの増強を急いだ。29歳の弁護士、Green Jamesonは壁を強化。Almaron Dickinsonは、21台の大砲の場所を選ぶ。アラモは布教所であって、砦ではない。アラモの防御には1000人が必要だったが、150名ほどしかいなかった。

トラヴィスらは応援軍を待った。すぐに、メキシコ軍が近づいているという報告が来た。悪天候のせいで、到着は3月半ば以降だと予想していたトラビスは耳を疑った。2月23日、見張りがメキシコ軍を発見。

メキシコ軍が行進してくると、全員がアラモ内に籠城した。
サンタアナは降伏を要求したが、それに対してテキサス人は大砲で返事
サンタアナは「容赦なし(No quarter)」を意味する赤い旗をあげる。これは一人も生かさないことを意味する。

2月24日、メキシコ軍、アラモに砲撃を開始する。トラヴィスは支援要請の手紙(P237)を書く。大砲が何時間もアラモを攻撃。病気だったボウィは2日目には起き上がれなくなりトラヴィスに交代。4日目。トラヴィスは砲撃をやめ、メキシコ軍の一斉攻撃に備えて、弾薬を温存することにする。

リーディング・チェック
テキサス軍はアラモ籠城をどのように準備したか。十分な準備だと思いますか。

アラモ陥落(The Fall of the Alamo)

トラヴィスは暫定政府に何通もの手紙を送った。Bonhamは援軍を求めてアラモを発ったが、3日3日に戻ってきた。Juan Seguinもゴリアド抜け出したが、援軍はほとんど集まらなかった。
3月1日、32人の義勇軍がゴンザレスから到着。夜明けにそっとアラモに入る。

歴史学者は、当時、アラモを守っていたのは約200名の兵と見積もる。一方でサンタアナ側は1800人。

3月3日、トラヴィスはフェニン大佐の援軍がないことをワシントン・オン・ザ・ブラソスにいる暫定政府に送る。

3月6日の早朝。テキサス軍は、メキシコ軍の楽団の音で目がさめる。「El Degiello」は「容赦なし」という意味の曲だった。

朝の5時 4列のメキシコ軍がアラモを攻撃。テキサス軍の砲撃で一時ひるむも、再び4列で攻撃。アラモ内に入ると大砲を取り上げ、内側に向けて発砲した。

煙が消えた頃、防衛軍のほとんど全員が死んでいた。その中には、トラヴィス、クロケット(Crockett)、ボウィ(Bowie)、ボンハム(Bonham)、テハノス(=ヒスパニック系テキサス人)のJuan Abamillo, Juan A Badillo, Carlos Espalie, Jose Maria Espanza, Antonio Fuentes Domacio Jimenes, Jose Torvio Losoya, Andres Navaもいた。メキシコ側の死傷者(casualities)は、約600名と見られている。

アラモで生き残ったのは数人。Almaron Dickinsonの妻Suzanna Dickinsonと娘のAngelina , Ana Salazar Esparzaとその子供達、そして奴隷のJoeなどの数人だった。サンタアナはこれらの非戦闘員(noncombatants)を殺さずに逃した。

サンタアナはアラモの陥落で、テキサス人は反逆を断念すると信じたが、その反対に、アラモは、テキサス人にとって、命をかけても戦うことの象徴となり、「アラモを忘れるな(Remember Alamo)のコールがが、テキサス軍内に響くようになった。

リーディングチェック
どうして、アラモの陥落が、テキサス人を戦う気にさせたと思いますか。

テスト対策





11−2 協議会 (The Consultation) (P231)

要点

  1. テキサスの今後と、暫定政権を立てるために話し合いがなされた。
  2. すぐに新しい政府内で紛争が起こった

独立に向けた議論 (Debating Independence)

オースティンとバールソン(Burleson)がサンアントニオで戦っている間、メキシコとの関係を話し合うための協議会(Consultation)が開かれていた。

1835年11月4日 協議会が始まり、戦争派は独立を求め、反戦派はメキシコに従うと主張。
3日後の1835年11月7日、彼らはすでに起こってしまったメキシコとの戦争を正当化する宣言を発表。
テキサス人は反乱者ではなく、1824年州憲法で認められている権利を守っているだけだ、メキシコ政府がこの権利を否定するのなら、テキサスは独自の政府を樹立する、と宣言。

その後、協議会は暫定(provisional)政府を樹立。

ヘンリースミス(Henry Smith)を知事に選出。
議会(General Council)を設立。
アメリカとの調整役(Commissioner)にスティーブン・オースティンを任命。その役割は、志願兵の募集と、軍事資金の調達だった。
アメリカ式のプロの軍を創設。元政治家で軍人のサム・ヒューストンを軍の司令官にした。しかし、軍事金はなく、兵隊も素人ばかりだった。
議会は海軍の創設を承認。商船に敵の船の攻撃を許可した。

暫定政府 ( The provisional Government)

ところが、政権内で、戦略の違いから、すぐに紛争が発生。
独立派はリオグランデ川(Rio Grande)を渡ったメキシコ国内のMatamorosの攻撃を要求。
サム・ヒューストンは軍資金不足から反対。
Francis Jonson と James Grant 対 サム・ヒューストンとヘンリースミスの構図
議論が収まらず、フランシスジョンソンとグラントは、マタモロスへ進軍

その間に、ヒューストンと ナコドチェスのWilliam Goyenはテキサス東部に行き、チェロキー族との和平条約を結ぶ。ウィリアムは長年チェロキーとの折衝役で、ヒューストンもチェロキーと生活をともにしていたことがあるので、交渉は成功。革命に協力してもらえることになる。

暫定政権はうまくいかなかった。明確なゴールや優秀なリーダーシップに欠けていた。スミスの反対を押し切って、議会は1936年に新たな協議会を開くことを決定した。



11-2のテスト対策






11-1 戦争が始まる

要点


  1. ゴンザレスの戦いとゴリアド占拠がテキサス革命の始まり
  2. テキサス軍は、サンアントニオに軍を構え、メキシコ軍と小さな戦いを繰り返した。
  3. テキサス軍は、サンアントニオからメキシコ軍を追放した。

ゴンザレスとゴリアド占拠

1835年には、テキサス人はサンタアナの行動に不満を持っていた。
トラブルを恐れたメキシコの将軍 Domingo de Ugartecheaは ゴンザレスに住む住民に対し4年前にDeWittに貸した大砲を返すように要求。テキサス人は大砲を果樹園に埋めて隠す。

その行動に対し、Ugartechea将軍は軍を派遣し、力づくで大砲を取り返そうとする。それに対してゴンザレスの住民は、どうして大砲が必要なのか言い訳を作り、その間に応援を要請。

応援の要請に多くのテキサス人が答え、ゴンザレスに集結。テキサスの民兵は最低180人。100人は軍人だった。彼らは大砲を掘り出し、メキシコ軍を刺激
「COME AND TAKE IT(取れるもんなら取りに来い)」



10月2日 メキシコ軍が発砲  テキサスが撃ち返し、メキシコ兵が一人死亡
これがゴンザレスの戦いの始まり。この戦いは短かった。
テキサス人の死者はなし。

ゴンザレスの戦いがテキサス革命の緒戦とみなされているが、実際には沿岸地域で1ヶ月前から紛争は起きていた(P227の地図参照)

ゴンザレスの戦いの直後、テキサスの志願兵がゴリアドを占拠
この2つの戦いは、テキサス人の、サンタアナへの反発を示している。

サンアントニオへの行進

ゴンザレスでの勝利で活気付いたテキサス志願兵たちは、軍を作って次のステップに進むことにする。オースティンをリーダーにして、コス将軍をサンアントニオから追い出すことを決定。
しかし、その行程は楽なものではなかった。彼らは重い大砲を置いていかざるを得なかった。

10月末、オースティンはサンアントニオの郊外に軍を敷く。志願兵は600人に上っていた。そこで、コスの支配に苦しむテハノス(メキシコ系テキサス人)の支援を受ける。 Erasmo Seguinの息子 Juan Seguinも軍に入る。

しかし、テキサス軍はまだきちんとした形をなしていなかった。ほとんどが歩兵(infantry)で、メキシコの騎馬兵(Cavalry)との戦いに苦労していた。 オースティンの作戦は騎馬兵を増やすこと。Juan Seguinをはじめとするテハノスは騎馬兵を募った。

オースティンは野営地(camp)の場所にも不満だった。もっとサンアントニオの近くで相手を見張れる場所に陣を構えたかった。そこで、ジム(James "Jim" Bowie)というルイジアナ出身の辺境を歩くのに長けた男を派遣。

10月28日 コスは400人のメキシコ軍を送り、最初の戦い(Mission Conception)
メキシコ軍の方が数においては優勢だったが、ジムが見つけた優勢な場所と銃の性能がテキサス側の方が良かったおかげで、テキサス軍が勝利。

ゴリアド占拠に続く勝利で、オースティン軍の士気は一層高まる。



草の戦い (The Grass Fight)

最初の(Concepcion) の戦いのあと、Austinは軍隊の 基地をSan Antonioの北にあるOld Millに移した。テキサス軍はサンアントニ オを包囲する(lay siege)ことができた。しかし、サンアントニオ内のメキシコ軍には十分な物資があり、包囲しても効果はそれほどないように思えた。しびれを切らした多くの義勇兵が自分の家に帰って行った。残った兵士たちも気温が下がると病気になった。軍のリーダーたちは失望した。

包囲中、Austinは将軍よりも外交が向いていると気づき、アメリカ合衆国のコミッショナーとなる。指揮官にはEdoward Burleson が選ばれた。

1935年11月26日Burlesonの斥候(scout 敵の動静をこっそり探る人 )  耳の聞こえないスミス(Eratus “Deaf” Smith) が、100人以上の銀貨を持ったメキシコ兵と家畜がサンアントニオに向かっていると報告。この噂はテキサス軍に伝わった。 Burleton将軍は、奇襲をかけて銀貨を奪うためにBowie軍を派遣した。

Bowieの軍はすぐにメキシコの兵を打ち負かし、メキシコ兵の積荷を奪ったが、中に入っていたのは(銀貨ではなく)馬のエサ用の干し草だった。この事件はの「草の戦い (Grass Fight)と呼ばれるようになる。がっかりしたものの、サンアントニオ内のメキシコ軍が動物のエサに事欠いていることがわかり、包囲作戦には効果があることがわかった。

サンアントニオ占拠 The capture of San Antonio


Grass Fightの後、Burleson大佐はサンアントニオ攻撃を望んだが、指揮官らの反対にあったため、サンアントニオからGoliadへの後退を命じた。その同日の12月4日、捕らえられたメキシコの士官が連れてこられ、Cos将軍の軍隊が弱まり、組織が乱れていると報告。それを聞いたBen Milan大佐は、サンアントニオに攻め込もうと呼びかけ、300人のテキサス人がそれに応えた。その晩、彼らはOld Millに集まり、Ben MilanとFrancis W. Johnsonがそれぞれサンアントニオ攻撃の指揮を執った。

 1835年12月5日の早朝、テキサス兵はサンアントニオに攻撃をしかけた。攻撃の3日目、Milanは殺されたが、戦いはテキサスが優勢となった。 そして12月9日までに、メキシコ軍はサンアントニオ中心部から押し出され、12月10日にはコス将軍が降参し、テキサスから引き上げることに同意した。

 サンアントニオでの勝利によって、テキサスの人々は、戦いが終わったと確信した。これでCoahuila州から独立して、テキサス内に自分たちの州を作り上げ、求める生活を実現することができると考えたが、サンタアナSanta Annaはテキサスについて異なる計画を立てていた。

11−1のテスト対策はこちら



第11章 テキサス革命 (The Texas Revolution) P225


年表
1835年 10月2日  ゴンザレスの戦い
    12月9日 テキサス軍 メキシコ軍をサンアントニオから追い出す
1836年 2月23日 アラモ籠城開始
    3月2日  テキサス独立宣言
    4月21日 テキサス人 サンジャシントの戦いで勝利 テキサス革命終結
    12月10日 最初のテキサス旗が採択される    

10-4 戦争への動き (P215- P217)

要点
  1. サンタアナのメキシコ政権は、テキサスの管理を強化する。
  2. 不満を募らせたテキサス人らは、メキシコとの戦争を求めるようになる。

メキシコの管理に苛立つテキサス人の一人、アンドリュー・ブリスコー(Andrew Briscoe)は、メキシコ人の役人を困らせようと、自分の船にレンガをたくさんのせ、船を重く見せかけ、密輸をして税金逃れをしているように見せかけようとした。役人もこのいたずらに苛立ち、ブリスコーを逮捕した。

メキシコ、管理を強化


ブリスコーの行動は、メキシコ政府の管理に対するテキサス人の苛立ちの表れである。1834年サンタアナは、メキシコはまだ共和国にはなれないと宣言。1824年州憲法を復活させるという就任前の約束を早速反故にした。

アメリカからの移民 は合法化(legalize)し、幾つかの関 税は撤廃するも、1835年に軍と税徴収人をテキサスに送る。

1835年春、Antonio Tenorio 大佐がアナワクで税収を始める。1832年以来の徴収にテキサス人は立腹。

船にレンガを積んで、密輸と見せ かけ、役人を困らせた罪で逮捕さ れたアンドリュー・ブリコー (Andrew Bricoe)を救うために、トラヴィスはアナワクに行き、 テノリオ(Tenorio)に降伏を要求、 拒否されたため、攻撃。テノリオはテキ サスから撤退。 

トラヴィスの行動にテキサス人は困惑。 多くの人が心配した通 り、この紛争で、メキシコ政府は 支配を強化した。マルティン・ペルフ ェクト・デ・コス(Martin Perfecto de Cos)将軍をおくり、トラヴィス や元メキシコ議員のザヴァラ(Zavara)を逮 捕。テキサスの支配を強める。コスは、テキサス内のメキシコ軍を増やすように命令した。


戦争か、平和かの論争

コスの命令に、テキサス住民の不安は高まり、意 見は2つに分かれた。軍人コスは囚人と軍法会議にかけようとしていた。これはメキシコでは合法だが、アングロ系市民にとっては受け入れがたいことだった。彼らは、陪審員裁判が保証されたアメリカに住んでいるのだから。

テキサス人は議論を重ねた。メキシコと 平和な関係を築きおとなしくしていようという派閥とメキシコに 抗議すべきと考える派閥。 

テキサス内メキシコ系のテハノス たちは、サンタアナの中央集権 主義には苛立ちを覚えながらも、 アングロ系移民が自分の利益ばかり考えてメキシコの連邦主義を進めないこと にも苛立っていた。 

議論の最中、オースティンがメキ シコから帰還。平和のために赴いたメキシコで逮捕されたことで、彼のメキシコに対する考えは変わっていた。オースティンは、テキサスが力を合 わせてサンタアナと戦うしかないと人々を激励。「我々の権利、と自分自身、 我が国を、武器の力で守ること以 外に治療法はない」


リーディングチェック

オースティンの逮捕や、テキサスでの紛争によって、どうして人々が戦争を求めるように変わっていったと思いますか?


2018年6月13日水曜日

10-3 集会と陳情 (Conventions and Petitions)

要点

  1. テキサス人はメキシコの新政府が、テキサスを改善してくれることを望む
  2. 1832年と1833年の集会では、移民政策の改正とテキサスが州として認められることを要求
  3. スティーブン・オースティンは、1833年の集会の要求を伝えに行ったメキシコで逮捕される。


ブスタマンテとサンタアナの内戦は続き、テキサスの人々はサンタアナを支持、オースティンはサンタアナを支持することを表明するためにサンタアナの部下のホセ・アントニオ・メヒアに会い、テキサスのサンタアナ支持を確約した。

The Convention of 1832(P211) 1832年の集会 


1832年、テキサス人が期待したサンタアナが勝 利。1833年に大統領になる。 

テキサス人、1824年憲法の復活を約束したサンタアナの勝利を喜 んだ。1830年6月4 日法が施行されてからメキシコ中央政府の支配に不満だったからだ。

テキサスの16 の植民地は1832年10月1日にサンフェリ ペで集会(Convention)を開く。テハノス(ヒスパニック系テキサス人)の植民地、サンアントニオはリーダーを送らなかった。代表団 (delegates)は改革(reforms)について 話し合った。 メキシコ政府に要求する決議案は以 下の通り 
1)アメリカからの移民許可。 
2)テキサスはコアウイラの一部で はなくメキシコの1州だと認める。 
3)3年間、関税撤廃 
4)公教育のための土地提供

この決議を州政府に届ける役 目にウィリアム H ワートン(William H. Wharton)を選ぶが、サンアントニ オの不参加によりこの決議は認められなかった。 7. ... (読解チェック) テキサス人は1824年憲法がどうなることを望んだ か。1832年の改正案では何を要求し たか。 

The Convention of 1833(P212) 1833年の集会


 オースティンは、改革を進めるために はすべてのテキサス人が協力しなけれ ばいけないと気づき、サンアントニオ のテハノス(メキシコ系移民)や各入植地のリーダーたちと話し合いを進める。待ちきれないテキサス人は再び集会を開いた。 1833年4月1日の会議で、ウィリ アム・ワートンが議長に選ばれ、ナコ ドチェスに来たばかりの元アメリカ議会議員でテネシー知事のサム・ヒュー ストンも参加し、行動を求めた。

オースティンは自分のいない間に会議 が開かれたことに立腹し手紙を書いた。 結局、1932年と似た決議が採択された。オースティンがメキシコに決議を提案するために1933年4月22日に メキシコシティに向かった。 

Austin Is Arrested (P213) オースティン逮捕される 

オースティンは3ヶ月かけてメキシコシティに到着するも、問題が多かった。サン タアナ将軍はおらず、副大統領にしか 会えなかったのだ。メキシコ政府にも問題が山積していた。 コレラが蔓延していて、何千人もが罹患しし死んでいった。

9月、オースティンはまだメキシコ政 府から返事がもらえず、ゴメス副大統 領に承認を待たずテキサスは州政府に なると伝える。副大統領は立腹。 

翌月、サンタアナがメキシコシティに 帰還し、1833年決議のほとんどを承認。アメリカ人の移住を認め、関税を 下げるも、テキサスがコアウイラから 離れた別政府になることは認めず。

オースティンは1833年12月10日にメキシコシティを離れた。しかし、途中のコアウイラで、オーステ ィンの手紙を読んで、オースティンがメキシコ政府に刃向かったと勘違いしたメキシコ政府の役人に逮捕されてしまう。  

オースティンはメキシコシティに連れ戻され、裁判もなく投獄され、1834年12月25日までの1年 間獄中で過ごす。その後もテキサスに戻ることを許されなかった。テキサスの人々はオースティンの身を心配した。


10-2 緊張の高まり

要点

  1. メキシコ政府の役人とテキサス人との間の緊張が高まり アナワク(Anahuac)で衝突。
  2.  Turtle Bayou決議でテキサスはメキシコ政府を支持するこ とを宣言

アナワクでの緊張

アナワクはトリニティーリバーとガルベストン 湾の交わる貿易の要所でブラッドバーン大佐が 1830年に、1830年4月6日法を施行するために到着。 

ブラッドバーンはすぐにメキシコ人の役人と衝突。それまでのメキシコ人役人のFrancisco Modero を不法に土地の権利を与えていたかどで逮捕

マデロを投獄し、Liberty政府を解散し、奴隷の無償利用 したことで、多くのテキサス人は、ブラッドバーンに怒り。

1831年新しい関税役人のGeorge FIsherが到着。煩雑 な手続きの関税にも不満。 オースチンはブラッドバーンに手紙を書き「新 しい関税は 実行不可能」と訴える。

 1832年 新しい入植者 トラヴィス(William B Travis) とジャック(Patrick Jack) はブラッドバーン(Bradburn) に敵意を募らせ、市民兵を募り、偽の噂を流す。 ブラッドバーンは二人を逮捕、裁判にかける。 テキサス人入植者はこの逮捕に激怒する。 

(読解チェック)1830年4月6日法がどのように してAnahuacでの諸問題につながっていったの か?


タートル・バイユー決議

ジャックの弟ウィリアムを筆頭に150人のデモ隊 が釈放を求める。怒ったテキサス人が、メキシコ 軍に発砲し、メキシコ兵を捕獲する。メキシコ政府は、 メキシコ兵の釈放とテキサス人がアナワクから撤退することを囚人釈放の条件にし、テキサス側も了承す る。ところが、居残った少数のテキサス人がい たことでメキシコ政府は2人を釈放しなかった。

アナワク(Anahuac)から撤退したテキサス入植者たちはタートル・バイユー Turtle Bayouに向かった。報復を恐れた彼らは大砲 を取り返すためにオースティンをBrazoriaに送った。 Anahuacに残ったテキサス人は、タートル・バ イユーの決議(Turtle Bayou Resolutions)を書 き上げた。 今回の出来事はメキシコに対する反乱ではなく、 権利と憲法を守っており、ブスマンテ大 統領の転覆を図るアントニオ・ロペス・デ・サ ンタ・アナ(Antonio Lopez de Santa Anna)を 支持する、という内容だった。

 (読解チェック)どうして入植者たちは、ター トル・バイユー決議を作成したのか?何を宣言 したのか?

Valascoの戦い

ブラッドバーン(Bradburn)は紛争の責任を問われ辞任。Piedras大佐ががアナワク(Anahuac)を治める。ジャックとトラヴィスは釈放される。
紛争が終了したことを知らないオースチンのグループは船で大砲を運ぶ。ブラゾス(Brazos)川の河口のヴァラスコ(Valasco)に着くが、メキシコ軍が通さなかったため、1932年6月26日戦いが勃発。3日後、メキシコ軍は弾薬が切れ降参。両軍にけが人多数。オースティンたちは大砲を持って、アナワクまで進むが、紛争は収まっていた。

テキサス内のメキシコ中央政府の力は増大していったが、メキシコ兵はメキシコ国内のサンタアナ将軍とブスマンテ大統領との内戦を戦うため去って行った。テキサス人はサンタアナが勝利して1824年憲法が戻ることを望んだ。

10−1 テキサス内の政情不安

要点

  1. フレドニアン革命はテキサス東部に独立した共和国を作ろうとする企て
  2. Mier y Terån がテキサスを周り、アメリカ系移民の影響力が強すぎると結論
  3. 1830年4月6日法が制定され、アメリカ人のテキサス移住が禁止される

フレドニアン革命

1825年、ヘイデン・エドワーズ(Haden Edwards)はメキシコ政府から認められ、エンプレサリオとなり、オースチンとともに、ナコドチェスに移住した。しかしそこにはすでに100年以上前から住むメキシコ系、アングロ系、そしてチェロキー族が住んでいた。

契約上、エドワーズはその土地に住む人々のすべての所有権を尊重することが求められていたが、エドワーズはそのルールに不満を持った。彼は、何人かの元住民の権利(title)を偽造(forgeries)と宣言、すでに土地を持っている人々から追加の料金を取ろうとした。

エドワーズの行動に元からいた入植者は激怒した。翌年の選挙で、エドワーズの義理の息子が市長(alcalde)に選ばれると、元入植者たちは不正(fraud)を疑った。彼らはメキシコ政府に不満を伝え、1826年、メキシコ政府はエドワーズとのエンプレサリオ契約を破棄した。

エドワーズ支持者たちは、新しい市長を逮捕し、職務追放を試みるも、メキシコ政府が軍を送り新市長をサポートする。エドワーズと兄弟のベンジャミンとチェロキー族を含む支持者たちはメキシコの支配からの独立を宣言 1826年12月21日、フラドニアン独立宣言を発行した。

多くのテキサス人は、テハノス(ヒスパニック系)もアングロ(白人系)もこのフレドニアン革命に反対。スティーブン・オースティンはメキシコ政府の決定に賛同し、民兵(militia)を招集。1827年メキシコ軍と民兵が向かっていることを知った反乱者たちは逃走。共和国は崩壊した。

リーディングチェック
どうして、フレドニアン暴動が起こったか。

ミエル・イ・テラン(Mier y Teran)の報告書



フレドニアン暴動は小さな出来事だが、メキシコ政府はテキサス領内のアメリカ人の人数が気になり始める。
メキシコ政府はミエル・イ・テランを調査に派遣
ミエル・イ・テランは1828年ラレド(Laredo)とサン・アントニオに赴きオースチンと会う。オースチン、メキシコへの忠誠を誓う。
ナコドチェスを訪ねたミエル・イ・テランは、テキサス東部では、アメリカ人入植者とテハノス(Tejanosメキシコ系住民)の比率が10対 1と、アメリカの影響力が増大していると報告
テキサスにおけるアメリカの影響力を抑えるために、ミエル・イ・テランは、テキサスとアメリカの貿易を増やすこと、テキサスに駐 留するメキシコ軍の規模を拡大すること、より多くのヨーロッパ系、メキシコ系住民の移住を促進することを提案。


1830年4月6日法

The Law of April 6, 1830: 183046日法

 ミエル・イ・テランの報告書をを読んで、メキシコ政府はテキサスにおけるアメリカの影響力を厳しく制限する法律を通過させる。
 限られたエンプレサリオ(オースチン、Green DeWitt)などだけが契約続行。不法アメリカ人をテキサスに入れず、国境沿いに軍と役人 を配備
アメリカ人はエンプレサリオにはなれなくなったが、メキシコ政府はメキシコ人やキリスト教ヨーロッパ人をどんどん入植させて、エ ンプレサリオにする。
アメリカ人の移住制限だけでなく、この1830年4月6日法は、アメリカからの輸入製品に関税をかけた。テキサス内のアメリカ製品の 値段が上がる。テキサス人関税を払う羽目に。
この法律にテキサス人は不満。移民は増えたが、関税は経済の足かせになる。イギリス系住民も移住制限に不満。オースチンもこの法律を嫌悪。政府に対し、テキサスを子どもか奴隷のように扱っていると表明移住を手助けしたテハノス(Erasmo Segui, Jose Antonio Navarro, Francisco Ruiz)らも、アメリカ移民はメリットがあると法律に反対

テキサスの声
アメリカ移民がテキサスに来るメリット
1)原住民に様々な物資提供 2)インディアンの侵略から守ってくれえる、3)ニューオリンズやニューメキシコとの交通や商業発展 4)北アメリカ政府の考え方はヨーロッパからの移民よりメキシコ人に適合しやすい。 


この章のテスト対策はこちらのクイズレットをご覧ください。

第10章 革命への道(1825年ー1835年)


時代の流れ 
 https://quizlet.com/212446572/10-18251835p200-flash-cards/




用語のまとめ

https://quizlet.com/259872789/10-flash-cards/
    



9章 メキシカン・テキサス時代の人々の生活(1820-1835)


この章は、中学校では飛ばされたので、訳しません。

8−4 エンプレッサリオとテハノス

要点
メキシコの1924年州憲法のもとでは、テキサスはCoahuila州と合併していた。
メキシコの新しい植民地法で、エンプレッサリオ(Empresario)が、テキサスの入植地に入植者を連れてこられるようになった。
多くのテハノス(ヒスパニック系テキサス住民)が、アメリカ合衆国からテキサスへの移住をサポートしたが、その後、両者の関係は緊張する。

メキシコの新憲法

メキシコのリーダー Agustin de Iturbideが力を失うと、メキシコでは政変が起こり、1824年州憲法が採択される。

新しい憲法により、メキシコは共和国(republic)となった。 政治は選ばれた大統領とそれぞれの州政府に任させた。このシステムを連邦制(federalism)という。19の州と5つの領地に分けられ、テキサスは、Coahuilaと一緒にされ、Coahuila y Texas州となった。

テキサス人の多くはこの合併に不満だった。Coahuila郡の方が人口も多く力が強かったからだ。

メキシコの新しい植民地法

Coahuila y Texas州は独自の移民法を持っていた。Baron de Bastropらは、テキサスの発展を望んだ。アメリカ人入植者がインディアンの襲撃から守ってくれることを望んだ。また、入植者が増えると、土地の価値も上がると思った。「1825年植民地法」がメキシコ国会を通過すると、テキサスの入植地への移住が加速した。

新植民地法のもと、多くの人々がスティーブン・オースティンの後に続き、エンプレッサリオEmpresarioz(新しい入植地の指導者)になった。ビジネスピープルがエンプレッサリオになり、67,000エーカーの土地を受けとり、200家族をテキサスに連れて行った。家長は4428エーカーを、1エーカーあたり1ペニーで買うこと亜できた。新しい入植者は入植後10年は税金を納める必要がなかった。条件はただ一つ、入植者はキリスト教徒で、良きメキシコ市民になることだけだった。このエンプレッサリオ制度によってテキサスへの人の移動の波が起きた。

エンプレッサリオ植民地

1825年から1832年の間に、メキシコ政府は20数人とエンプレッサリオ契約を結んだ。ほとんどのエンプレッサリオはアメリカ人だったが、ヨーロッパ人もいたし、Martin de Leonのようなテハノ(メキシコ系の)リーダーもいた。

それぞれの植民地については、177ページの地図を参照のこと。

テハノのリーダーシップ

エンプレッサリオ制度によってテキサスの人口は急増し、1834年には推計24700人が入植していた。テハノのリーダーはメキシコ人の入植を増やそうとするが、なかなか増えず、アングロ系(白人系)入植者がテハノ系人口の3倍になった。

入植当初、テハノスは、テキサスの人口が増えることを熱望した。綿花産業の発展が経済発展につながると考えたからだ。

この綿花産業がテハノスの意見を2分する。綿花産業には奴隷が使われており、Seguin やAntonio Navarroといったリーダーは奴隷は必要と考えたが、他のリーダーたちは奴隷に反対した。

入植が進むとテハノのリーダーと他の入植者の間で紛争が起こった。De Leonの植民位置からいなくなった家畜がDeWittの土地から見つかった。このようなことが暴力につながったが、それを止めた人物が二人いた。スティーブン・オースティンとラファエル・アントニオ・マンチョラだった。

テハノの人口は少なかったが、Seguin, Navarro, Mancholaといったテハノのリーダーたちは州でも重要な地位にいた。


8−3 オースティンの入植地

要点

  1. 入植の最初の数年、オースティンの入植地では、全員が逃げ出しかねないほどの問題が起きた。
  2. オールド・スリー・ハンドレッド(テキサスに最初に入植した白人系300家族)が、サン・フェリペ・デ・オースティンを中心としたオースティンの入植に協力する。
  3. 最初の入植地が成功すると、オースティンはテキサスにあと4つの入植地を作る

オースティンの入植地の初期の問題

オースティンは、Baron de Bastorpという土地の権利を発行する権限を持った人と、1823年8月に自分の入植地に戻った。ところが、多くの入植者が去った後だった。オースティンがいない間に、ひどい干ばつによる食糧不足が起き、入植者は狩りをして生き延びていた。加えて、KarankawasやTonkawasといった地元のアメリカンインディアンの襲撃もあった。

オースティンはメキシコの入植を認めたと入植者への説得を試みる。アメリカンインディアンの襲撃から守る民兵も組織した。オースティンは入植者たちからの信頼を得て、入植者が戻ってくるようになった。

ザ・オールド・スリー・ハンドレッド

1824年の秋までに、297家族と1人の独身男性が、入植地で土地を受け取った。この最初の白人入植者はオールド・スリ・ハンドレッドと呼ばれる。その多くはルイジアナ出身、農業を営み、奴隷を所有しているものもいた。1825年にオースティンの入植地に住んでいた1790人のうち、440人は奴隷となったアフリカ系アメリカ人だった。

入植者の教育レベルは比較的高かった。オースティンの厳しいルールにより、法も守った。

女性でも土地をもらった人たちがいる。フィルバスターJames Longの未亡人、Jane Longは1824年に土地を譲り受け、オールド・スリーハンドレッドの中でも最も有名な一人となった。

サン・フェリペ・デ・オースティン

植民地の首都は、サンフェリペとなった。現在、ブラゾス川のオースティン郡にある。メキシコとテキサス東部を結ぶ交通の要所にあり、絶壁の上にあったので防衛も容易で、崖の下の川から水を得られ、フェリーも停まっていた。

サン・フェリペは、オースティンの入植地の中心となり、入植地の人口は急増した。

1830年までにサンフェリペはサンアントニオに続くテキサス第2の商業地となった。

オースティンのその他の入植地

José Miguel de Arcinega、Gaspar Flores de Abrego、 José Antonio Saucedo、Erasmo Seguinなどのヒスパニック系のリーダーたちもオースティンの植民地作りに協力した。彼らの協力のおかげで、オースティンは1825年から1831年までの間に他に4つの入植地を設立。一つだけ離れたところにあり、オースティンのリトル・コロニーと呼ばれる。

リトルコロニーには、コマンチェ族の狩場に近かったので、よく襲撃を受けた。

離れていたため、リトルコロニーの発展は遅かった。オースティンも、民兵を組織したり、トンカワ族を味方につけたりして、発展のための尽力をするが、なかなか入植は増えなかった。

しかし、他の入植地は発展していった。


8−2 オースティン家がテキサスに来る

要点

  1. モーゼス・オースティンは、テキサスに入植地を作ろうと計画するが、完成前に死ぬ
  2. スティーヴン・F・オースティンは父の計画を続け、テキサスに最初のアングロ系入植者を連れてくる。
  3. オースティンの入植地は、最初の数年、多くな困難に見舞われる。

用語
cotton gins 綿織り機 綿の繊維と種子を分ける道具 
militia  民兵

8−1 テキサスに対する(メキシコの)新政策

要点

  1. 国防のためメキシコ政府は国民のテキサス移住を促進。
  2. テキサスに入植したスペイン人、メキシコ人、アングロサクソン人(イギリス系)は異なる目的と方法を持って入植していた。

アングロ系テキサス人(テクシャン)を増やせ

1821年のメキシコの独立により、テキサスはメキシコのものとなり、メキシコ時代は1836年まで続く。この時代のメキシコ政府の新政策は、Miguel Ramos Arizpeが推奨したようにテキサスの入植者を増やすということであった。

この時期、テキサスはメキシコにとって国防に欠かせない国境(Frontier)であった。他にもメキシコの国境位は、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアがあった。

テキサスはメキシコにとって、北のアメリカ合衆国やアメリカンインディアンから守る重要な緩衝地帯(buffer)としての役割があった。

7章でも学んだ通り、メキシコの独立戦争でテキサス内の人口は激減しており、国防には不十分だった。メキシコ政府は国民にテキサスに丹生食するように進めたがそれは簡単なことではなかった。誰も過酷な自然でアメリカンインディアンの襲撃もあるテキサスに行きたがらなかったからだ。

そこでメキシコ政府が目をつけたのが、アメリカ合衆国だった。ここには牧草地や農場を求めるアメリカ人開拓者がいた。そこで、メキシコ政府は、こうした開拓者に土地を与えることを認めた。すでにテキサスに住んでいたTejanos (テハノス)に対して、こうした主に白人の新しい開拓者はAnglos (アングロス)と呼ばれる。この後、数年にわたって、メキシコ政府は、アングロ系開拓者に向けた法制度を進めていく。

入植者たちの見解の違い

1830年までに、テキサスには、Spaniards (アメリカ大陸生まれのスペイン系)、メキシコ人、アングロ系が入植していた。そしてその目的は異なった。

スペイン人がテキサスに来た目的は、presidios (砦、伝道所)、施設、牧場、街をテキサスに作るためだった。スペイン人は、アメリカンインディアンにキリスト教を教え、スペイン風の生活様式を学び、スペインの臣民になることを目指した。

メキシコが独立を果たした頃には、伝道所は荒廃していて、兵士もインディアンもほとんど住んでいなかった。寂れた伝道所に資金を出すのを嫌った政府は、伝道所をsecularize(世俗化=宗教的ではなくなる、ということ)した。1831年までにテキサス内のすべての伝道所は、世俗化され、宗教施設ではなくなった。

メキシコ人は、スペイン人と同様に、防衛のためにテキサスに入植した。砦を作るのではなく、自衛した。アメリカン・インディアンの襲撃から完全に安全な土地はなかった。メキシコ政府は、土地を無料か格安で分ければ、危険でも人々は来てくれるだろうと願った。

危険を受け入れたものの多くにアングロ系移民がいた。彼らは経済的な理由で移住してきていた。次の章にあるおうに、アングロ系商人たちは、テキサス中に入植し、畑や農場を作り、海岸沿いでは、港や船を作った。スペインやメキシコ人と異なり、インディアンに文化を伝えようという意思はなく、インディアンを入植地から追い出した。




2018年3月2日金曜日

8章 メキシコ国境のテキサス(1820-1835)

スティーブン オースチンは、テキサスに入植地を作るという父の計画を達成。

年表
1821年 スペイン政府はMoses Austinにテキサスに丹生触知を作る許可を与える。
1823年 約3000人のアングロ系入植者がメキシコ政府の許可なしに入植
1824年 Empressario(メキシコ政府の許可を得た入植地のリーダー)Martin de Leon入植
1826年 Green DeWitt入植地でアメリカインディアンの襲撃 Gonzalesに逃げる
1829年 オースチンの入植地でTexas Gazette新聞発刊
1835年 このころまでにテキサス入植者は3,500の土地の譲渡を受けている。


7−4 メキシコでのスペインの支配が終わる

要点
1821年 メキシコはスペインからの独立を果たす。
メキシコの独立戦争で、テキサスは多くの被害を受ける。

メキシコ、独立を勝ち取る。

テキサスの解放を目指すだけのものいれば、メキシコの独立まで目指すものがいた。Hidalgo神父が処刑されると、Jose Martis Morelos y Pavonという神父が革命の指揮をとり、スペイン王制からのメキシコの完全独立と、メキシコに共和国を作ることを目指す。すぐれた軍人でもあったMorelosと彼の軍隊はメキシコで力を急激に伸ばすが、1815年、Morelosはスペインに捕まり、処刑される。

Morelosの死は革命派にとって大打撃となる。Vincente Guerreoなどの少数のrebels(反乱者たち)はスペイン軍に対する攻撃を続けるが、メキシコの独立運動は風前の灯ののように見えた。

ところが、1820年に、意外な展開となる。スペインで自由主義者たちによる立憲革命が起こったのだ。その結果、メキシコの王党派(royalist)の多くもスペイン王の支持を止め、独立を目指すようになる。

そうした元王党派の一人がAgustin de Iturbide (イトゥルビデ)。彼はMorelosを捕獲した軍のリーダーであったが、スペインの新政府に支配されるのを恐れ、Guerreroの反乱軍に加わる。Iturbideは3つのゴールを掲げる。1)メキシコのスペインからの独立 2)メキシコ人は皆平等 3)カトリック教会をメキシコの宗教にする。

1821年、IturbideとGuerreroの両軍は力を合わせ、スペインに勝利。メキシコは独立を勝ち取る。メキシコは新政府を立ち上げる。IturbideとGuerreroは権力を分割する約束だったが、1822年、Iturbideはみずから皇帝Agustin 1世と名乗り、権力を全て握ろうとする。だが、それもメキシコ国民の反対にあい、長くは続かなかった。


メキシコ独立の原因と結果

原因

ニュースペインでのヨーロッパ生まれのスペイン人とアメリカ生まれのスペイン人の貧富の差
スペインでの政治腐敗
アメリカやラテンアメリカでの独立戦争
スペインとのコミュニケーション不足
干ばつと飢餓

結果

独立した共和国としてのメキシコ誕生
メキシコやテキサスでの経済疲弊、戦死者
メキシコでの政権不安定
アメリカやヨーロッパからの移民を促進し、人口増加を図る
アメリカやヨーロッパとの貿易を振興し、経済発展を図る



戦争がテキサスに与えた影響

多くのテキサス住民はメキシコの独立を支持していたものの、その被害は大きかった。

影響で最も大きかったのは人口。戦闘で多くのテハノス(テキサス内に住むヒスパニック系住民)の多くは殺されたか逃げたかして、1821人にはテキサスには、たった約3000人のテハノスしか住んでいなかった。これは1810年の3分の2の人口である。

そのうち1500人は首都のサンアントニオに住んでいた。そこにはそれから大活躍する二人 Erasmo SeguinとJose Antonio Navarroが住んでいた。

また、残りのうちの500人は、サンアントニオの南東のGoliadに住んでいた。この町はLa Bahiaという名前だったが、革命で命を落としたHidalgo神父の名前の順序を変えて、改称された。

Nacogdochesは革命前には栄えていたが、戦争で寂れてしまった。

現在はテキサス州となっている南西部、Rio Grande川の近くには何千人もの人が住んでいたが当時はこの一帯はテキサスの一部ではなかった。El Paso del NotreやLeredoでは、牧場を営む人々が点在していた。

戦争で打撃を受けた牧場は急速に回復、拡大していったが、そこにはもともと30000人ものアメリカンインディアンが住んでいた。

裕福な牧場主は要塞のような家を作り、窓にも鎧戸や格子をはめ、物見台を作ってインディアンの襲撃に備えた。だが、Jacalesという泥と木の棒で作った小屋にしか住めないテハノスもいて、それではとても襲撃から身を守ることはできなかった。