2016年10月26日水曜日

6−4 スペイン人の入植地の拡大

スペイン人の入植地の拡大


要点
アグアージョ(Aguayo)の探検によりテキサス東部の伝道所が再開した。
軍人ホセ・デ・エスカンドン(Jose de Escandon)によりリオグランデ周辺栄える

(時代背景)
1791年、2人しかいなかったスペイン人の伝道所をフランス軍が夜襲。鶏を盗み、スペイン人は逃走。これはのちに「チキン戦争」と呼ばれる

アグアージョの探検

チキン戦争は当時戦争をしていた、フランスとスペインの喧嘩の延長だったが、もっと大規模に襲撃されることを恐れたスペイン人は、このスペイン東部から撤退する。
しかし、本国スペイン政府からの命令で、再びテキサス東部の防衛を強化するために伝道所を設立する。
その任を任されたのが、Marques de San Miguel de Aguayo
 Coahuila とテキサスの行政官であった。1720年 アグアージョは探検に出かける。
1721年、アグアージョがテキサス東部に着くと、フランス軍は戦うことなく撤退。アグアージョ隊は伝道所を再建する。 アグアージョが去る時には10の伝道所と4つの砦ができていた。その一つがNuestra Sanora del Pilar de los Adaes. このLos Adaesはスペイン領テキサスの首都になる。
もう一つの伝道所が Nuestra Senora de Loreto de la Nahia del Espiritu Santで別名 La Bahia  ずっと Gohiadoとも呼ばれていた。La Bahia はテキサス最大の開拓地となる。

リオグランデ沿いの新しい入植地

アグアージョ隊がテキサス東部の防衛を固めたものの、テキサス南部の湾岸沿いはほどんど誰も住んでおらず、フランスやイギリスが海から攻めて来た時、領土を守れないとスペイン政府は心配した。

その問題を解決したのは、軍人ホセ・デ・エスカンドン(Jose de Escandon)。彼は1746年、アグアージョが20年前に設立したLa Bahiaをサンアントニオ川沿いに移転した。La Bahiaは発展し、人口も増え、酪農も栄えた。近隣に住むカランカワ族と関係も改善した。

エスカンドンはリオグランデ沿いに次々と植民地を作っていった。メキシコからの入植者を増やすために、土地を無料で与えた。1749年に作られた最初の植民地が成功し、入植者が増えると、南の方に植民地を作り、たった6年間で24の植民地を作った。その中には1755年に作られたLaredoもある。また15の伝道所と2つの採掘所をつくった。当時、エスカンドンのつくった開拓地には6,000人もの人が住んでいたが、テキサス全体のスペイン人開拓者の数はたった1,800人だった。

質問)エスカンドンはどのようにしてテキサス内にスペインのプレゼンス(軍事的・経済的影響力)をつくったか。

紛争

(P127)
エストラゴンの植民地のずっと北では、他のスペイン人宣教師たちが、アメリカンインディアンたちにキリスト教を布教しようと努力していた。
サンガブリエル(San Gabriel)川沿いの伝道所建築は、口論と伝染病が原因で失敗した。しかし伝道師たちは諦めなかった。
アパッチ族にスペインの文化を教えて欲しいと頼まれると、これを好機ととり、1757年、サン・サバ(San Saba)という伝道所を設立した。数マイル先に砦もつくった。

アパッチ族はほとんど改宗しなかったが、伝道所にはよく来た。ところが止まることはせず、すぐに狩りや敵陣に略奪をしに出て行ってしまった。1758年3月、アパッチ族の敵、Comanche族, Caddo族 Tonnkawa族が仕返しをしに、伝道所を襲った。その多くはフランス軍から得た武器で武装していた。伝道所に火を放ち、3人の宣教師のうち2人を殺害。数週間前に馬を彼らに盗まれていたスペイン兵は伝道所を守りに行けなかった。スペインはのちにインディアンに報復に向かうが、インディアンを追い払うことはできなかった。

サン・サバの攻撃により、スペインテキサス中部のインディアン居留地付近でのスペイン人の植民地計画は頓挫した。南部は栄えてはいたが、テキサスの大部分はスペイン人が入植できなずにいた。


第4章 復習
1) 次の項目がテキサスの歴史においてどんな重要性を持っているか説明しなさい。

  • アグアージョの探検(Aguayo expedition)
  • ロス アダエス(Los Adaes)
  • ラ バイーア(La Bahia)
  • ホセ・デ・エスカンドン


2)テキサスの地図で場所を確認しなさい
Goliad (La Bahia)

3) テキサスにおけるスペインの植民地開拓が難航した理由を5つあげなさい。

4)この章の重要ポイント

a. フランスとスペインの紛争は、テキサスにどのような影響を与えたか。アグアージョの探検はどのような役割を果たしたか。

b. 伝道団はどのくらいApache族やComanche族を改宗することに成功したか?

5)クリティカル シンキング
1740年以降に作られた伝道団と開拓地について、次の要点を含めて、2段落以上の記述をしなさい。

  • サン・ガブリエル川沿いの伝道団
  • リオグランデの南側の開拓地







6−3 スペイン人 テキサスに再び定住

スペイン人 テキサスに戻る

要点

  1. フランスからの脅威を感じたスペインは、1700年代はじめにテキサス東部に再び定住する。
  2. スペイン人はいくつかの伝道所と砦を建造、この地方で市民が最初に定住したのは今のサン・アントニオだった。

重要な用語

フランシスコ・イダルゴ (Francicisco Hidalgo) 神父 テキサス東部での布教を熱望
ルイ・ジュシュロー・ド・サン・ドニ(Louis Juchereau de St. Denis)フランス人探検家
ドミンゴ・ラモン(Domingo Ramon) スペイン人 テキサス東部探検隊の隊長
アントニオ・マルジル(Antonio Margil)数多くの伝道所をテキサスに作った神父
マルティン・デ・アラルコン(Martin de Alarcon) サンアントニオを設立した文官
エル・カミノ・レアル(El Camino Real)メキシコシティとテキサス東部を結ぶ道

時代背景

フランシスコ・イダルゴは、辛抱強い神父であった。15歳でフランシスコ派になって以来、宣教師になってカトリックの教えを広げることを夢見ていた。ニュースペインに到着すると、彼はテキサスの話をあちこちで聞いた。テキサスのインディアンにカトリックを教えたいという意思は固くなる。計画は遅れに遅れるがいつかその日が来ると彼は信じていた。

使節団、ふたたびテキサス東部へ

サン・フランシスコ・ド・ロス・テハスの失敗後、スペインはテキサス東部を20年以上も放置した。宣教師たちの中にはその方針に不満を抱く者がいた。その一人が、フランシスコ・イダルゴ神父である。彼はそれまで、フランシスコ・ド・ロス・テハスに師事していたのである。イダルゴ神父は、リオ・グランデ沿いにSanJuan Bautista 伝道所を設立する手助けをした。でも、彼はそこでは満足できなかった。彼は、テキサス東部に行って、そこに暮らすアメリカン インディアンのために勤めかったのである。彼は、スペインの植民地政府に何度も、テハスの伝道所の再建をさせて欲しいと頼んだが、その願いはかなえられなかった。

諦められないイダルゴ神父は、他に助けてくれる人はないものかと手当たり次第にあたった。そして、ルイジアナのフランスの総督(governor)に、東部テキサスに伝道所を設立する手助けをしてもらえないかと依頼。フランスに手紙を出すなどあまりに無謀な行いんだった。なぜならこれまで見てきたように、フランスとスペインは長年の敵同士なのだから。

ルイジアナのフランス人は、メキシコにあるスペイン領と交易する機会をずっと狙っていた。しかし、スペインはそれを許してこなかった。イダルゴからの手紙を受け取ったルイジアナのフランス人総督はこれをチャンスと見た。そして1713年、探検家ルイ・ジュシュロー・ド・サン・ドニをテキサスに送った。サン・ドニの任務は、イダルゴ神父を見つけること、そして、できればスペイン人とコンタクトを取り、今後の交易につなげることであった。

サン・ドニはまず、北に進んだ。1713年、彼はレッド・リバーの近くに交易所(trading post)を設立、それはのちに ルイジアナのNatchitochesという町に発展した。その後、サン・ドニは南西に進みテキサスに入り、ついには、イダルゴ神父が暮らすサン・ホワン・バティスタ伝道所のそばの砦にたどり着く。

スペイン領内のフランス人ということで、サン・ドニは逮捕された。しかし、砦の司令官ディエゴ・ラモンは彼を大事に扱った。フランス人の一行は伝道所内での生活を満喫して、サン・ドニは司令官の娘と交際するまでになった。ラモン司令官は、サン・ドニをメキシコシティへ送り、総督に合わせた。

サン・ドニが総督に伝えた情報から、スペインはフランスがテキサスに進出をしようとしていると確信。この地域の領有権を守る為、スペイン人はテキサス東部に再び伝道所を設立することを決定。フランスの活動を監視する為に、伝道所には兵士も駐留した。伝道所設立にはイダルゴ神父も選ばれた。

新しい伝道所設立のための探検隊を率いたのは、サン・ホワン・バティスタの息子、ドミンゴ・ラモン(Domingo Ramon)だった。サン・ドニはフランス人だったが、探検のガイドとして雇われた。探検隊には、スペイン人聖職者、兵隊、市民が同行した。妻を連れていく兵士もいた。彼女たちはテキサスに入った最初のスペイン人女性だろう。必要な物資の他に、スペイン人はこの地に住むテハス族への贈り物を持って行った。

1716年6月下旬、一行はテキサス東部に到着し、テハス族に温かく迎えられた。その時のことを一人の神父がこのように書き留めている。

「朝の8時頃34人のインディアンが到着した。我々は挨拶をして抱擁したかった。喜びで胸がいっぱいだった。我々はチョコレートを差し出した。我々が望んでやまない目的が達成できると前途は明るかった」

スペイン人は、もともと伝道所があった場所に、Nuestro Padre San Francisco de los Tejas という伝道所を設立。イダルゴ神父が責任者となった。

イダルゴ神父が伝道所に落ち着いた後は、アントニオ・マーギル(Antonio Margil)神父が開拓を続けた。サン・ドニとテハス族に導かれたマーギル隊はテキサス中にどんどん伝道所 を設立した。ラモン隊長はナチェス川沿いに砦を作るが、すべての伝道所を守ることは困難だった。

テハス族はスペイン人を歓迎はしたものの、キリスト教に関心を持ったものはほとんどいなかった。しかし、スペイン人は布教を続け、この地にスペイン文化を伝え続けた。しかし、それは長くは続かなかった。

(質問)スペインはどのようにしてテキサス東部を再び支配するようになったのか?

(P121の地図)スペイン支配下のテキサス 
1600年代、1700年代、スペインはテキサス内に伝道所や砦などを設立した。
(質問)現在のテキサスのどの辺りに、スペイン人の居留地が多く集まっていたか。

サンアントニオ

スペイン人は何が何でもテキサス東部に定住すると決意していた。前回の失敗の原因は、テキサス東部がメキシコから離れすぎていたことだった。最も近い開拓地から500マイルも離れていた。道は厳しく、途中インディアンの襲撃もあった。そのため、リオグランデとリオグランデ川の間にひとつの伝道所を作ることにした。それがサンアントニオである。
1718年、テキサスの行政官、マーティン・デ・アラルコンが、入植者をつれて、San Antonio de Valeroという伝道所を設立。木の枝と泥とワラで出来たら質素な建物だった。一行は、1マイル先にアントニオ・デ・ベハール(San Antonio de Bexah)という砦をつくった。

サンアントニオ川流域は定住に適していた。冬の気候は温暖で、夏は暑くても湿度が高くなかった。木綿が植えられるようになり「ニュースペインの中で最も美しい地域」とも評された。

それから数年かけてサンアントニオ川流域にはいくつもの伝道所が建てられた。
1720年にはAntonio Margil de JesusがSan Jose y San Miguel de aguayo を建てた。伝道所内にはインディアンもくらし、教会の建物も立派になって行った。周辺では砂糖の栽培も始まった。放牧も行われるようになった。

スペイン政府は僧侶と兵士だけではなく一般人の移住を望んだが、なかなか誰も行こうとはしなかった。1731年 カナリア諸島に住む15家族を募って移住させた。サンアントニオの砦があったサンアントニオ・デ・ベハールにはテキサス初めての民間政府ができ、ベハール、とか、サンアントニオと呼ばれた。

サンアントニオは、El Camino Real(王の道)と呼ばれるメキシコシティーからテキサス東部に続く長い道の中継点となった。サンアントニオに定住する人たちは増えていった。

(質問)どうして、サンアントニオが開拓されたのか。





2016年10月22日土曜日

6−2 フランス領テキサス

フランス領テキサス

(P115)

ラ・サールの探検

1600年代になると、スペイン以外の国々も北アメリカに進出。イギリスは東岸に開拓地を作り、フランスもスペインの国境支配を脅かすようになる。フランスはカナダ方面に進出。フランス人毛皮商人らは五大湖、オハイオ、ミズーリ、ミシシッピ川を探検。
1682年、フランス人探検家、ルネ・ロベール・カブリエ・シユール・ド・ラ・サールはフランスの領土拡大のために探検を続け、ミシシッピ川を下ってメキシコ湾の河口に到達。ここにラ・サールはフランス国旗を立て、ミシシッピ川が潤す五大湖からメキシコ湾に広がる全ての土地をフランスのものだと主張。

ラ・サールは、この地域を、フランス王ルイ14世の名前をとって、ルイジアナと名付けた。この地域を探検したのち、ラ・サールは一旦フランスに戻り、ミシシッピ川の河口付近に開拓地を作る許可を求めた。ラ・サールは、この地域の開拓をすれば、ルイジアナがフランスの領土となり、ニュースペインにある銀鉱山を持つスペイン領に進出する軍事拠点になると主張。貴重な毛皮貿易に使える港も手に入り、うまくいけば、スペイン人入植者との貿易もできるようになるかもしれないと語った。

ルイ14世はラ・サールの提案に同意。開拓地がスペイン領のテキサスに近いため、スペインを刺激しないように、計画は秘密裏に行われることになった。ミシシッピ川河口付近にそっと進出し、スペイン人が気付く前に開拓地を打ち立てようとした。

1684年の夏、300人の兵士と開拓者を乗せたラ・サールの探検隊の4隻の船はフランスを出航。ところが1隻がスペイン人の海賊に捕らわれ、脱走した数人がスペイン人にラ・サールの計画を漏洩。そうした中でも、ラ・サールは探検を続けたが、航路に迷い、船はミシシッピ川の河口を通り過ぎ、1685年、テキサスの湾岸のマタゴルダ湾に到着した。そこで1隻の船が貴重な食料物資を乗せたまま座礁(aground)。もう一隻はフランスに帰還。開拓者たちはほとんど食料や物資がなく、全く準備不足の状態で厳しい自然に残された。

セントルイス砦


残されたラ・サール探検隊は、この沼だらけの低地では生き延びれないことをすぐに理解。内陸に進み、Garcitas Creek のそばにセントルイス砦を築く。この地には数軒の簡単な住居と沈没した船の木材で作った5部屋の砦が作られた。5部屋の内の1部屋は教会のチャペルだった。防衛のため、砦の壁に8つの大砲が設置された。

開拓地が作られている間に、ラ・サール隊は小さなグループを率いてリオグランデの方向に西進。彼らはスペイン人の銀鉱山や食料を求めていたのかもしれない。1685年10月から翌年3月まで、ラ・サールは砦から遥か遠くまで探検。そしてセントルイス砦がミシシッピ川の西側にあったことにようやく気付くのだが、その前にリオグランデに到達していた可能性もある。

一方、開拓地の生活は厳しかった。飢餓や病気で多くの開拓者が命を失った。また、ラ・サール探検隊に腹を立てたカランカワ族からの襲撃からも守らなければならなかった。1685年7月末には半数以上の開拓者が死亡した。開拓地のリーダーたちが喧嘩を始め状況は悪化。ラ・サールは1686年3月に危機的な砦に帰還。たった一層残っていた船ラ・ベール号が嵐によって沈没すると開拓者たちは行く手を失った。

ラ・サールは助けを求めてカナダに行くことを決意。しかし、ミシシッピ川まで東方の荒野を抜けるのは困難を極め、探検は失敗に終わる。1687年初頭ラ・サールと17人の探検者たちは再び東を目指す。テキサス南東部を進むが緊張は高まる。隊員たちは口論を始め、ラ・サールは兵士の一人に殺害される。カナダに戻れたのは6名だけだった。

開拓地に残されたものも30名以下。そのほとんどが女と子供であった。カランカワ族が襲撃し、1688年か1689年に砦を突破。全ての大人を殺し、砦を破壊した。5人の子どもがカランカワ族に捕らわれ、その後、救出されるまで捕らわれの身となった。

ラ・サール探検隊は悲惨な結果に終わった。失敗はしたものの、この探検のおかげで、フランスはテキサスの領有権を主張できるようになり、リオグランデの北にあるスペイン領に挑戦する形となった。

(質問) セントルイス砦が失敗した理由は?

スペイン人、ラ・サールを探す


セントルイス砦の設立直後から、スペインはフランス人をテキサスから追い出そうとした。スペインは陸から6つの探検隊、海から5つの探検隊を送った。1686年、1687年には開拓地を見つけ出すことができなかったが、探索中に、スペインはテキサス東南部の地理を学ぶことができた。

スペイン人探検家、アロンソ・ド・レオン(Alonso de Leon) は1689年に探検隊を率い、フランシスコ教会のダミアン・マサネ神父も同行した。フランス人の基地を発見することはできなかったが、探検隊はインディアンと生活をする二人のフランス人の生き残りを発見。ド・レオンは彼らをメキシコシティに連れ帰り尋問。スペイン政府はド・レオンを再びテキサスに派遣し、砦を探させた。ド・レオンはついに開拓地を発見。その時の様子を次のように書き綴っている。

「野原に散らばる3人の死体を発見。一つは骨にくっついていた服から女性のものだとわかった。もっと死体を探したが見つけることはできなかった。多分、小川に投げ入れられワニの餌食になったのだろう。」

フランス人開拓地の発見に加えて、スペイン人は探検中、ハシナイ(Hasinais)族と出会う。スペイン人は彼らのことを、ハシナイ族の言葉で「友達」を意味するTejas (テハス)と呼ぶようになる。マサネ神父は、ハシナイ族が伝道所の設立に関心があると信じた。探検から帰ると、探検隊は学んだことを提督(viceroy)に報告した。

質問) フランス人開拓地を探す途中でスペイン人が達成したことは何か?

テキサス東部におけるスペイン人伝道団


アロンソ・ド・レオンとマサネ神父はこの地域とテハス族に好印象を抱き、メキシコシティに到着するや否や、提督にこの地に伝道所を設立することを提言。ド・レオンは、伝道所の周りに砦を築き、軍事的影響力を広げることを主張したが、マサネ神父は、兵士は伝道活動の足かせになると反対。スペイン政府はマサネの計画を採用。
1690年初期、ド・レオンとマサネ神父は数人の伝道士と100人の兵士とともにテキサスに戻った。テハス族の土地に到着し、この地域がスペイン王のものであると宣言。ネチェス川の西岸に伝道所を築いた。たった数日後にはサン・フランシスコ・ド・ロス・テハスの建物が建造された。ド・レオンとマサネ神父は、3人の修道士と3人の兵士を伝道所に残して、メキシコに帰国。テハス族も伝道師たちも伝道所の未来に希望を抱いていた。

1691年 マサネ神父は、最初のスペイン領テキサスのGoverner Domingo Teran de los Rios を連れて伝道所に戻った。しかし、両者の間で論争がおき、伝道師たちの間に緊張感が生まれた。干ばつや洪水で伝道所内の作物が枯れ、物資は乏しくなり、スペイン人たちはトウモロコシパンしか食べるものがなかった。伝道所内のテハス族は牛の皮を食べて生き延びた。

テハス族が宗教の教えを望んでいないことがわかり、スペイン人は失望した。病気が発生すると、テハス族はスペイン人が病気を持ち込んだと非難、この地を去るしかないと気づいたスペイン人は、1693年10月25日、伝道所を焼き払い、教会の鐘を埋めてメキシコに逃げ帰った。

質問)なぜ、スペイン人はテキサス東部を去ったのか。

6−1 スペイン人 国境付近で定住を始める

スペイン人 国境付近で定住を始める

(時代背景)
アッシジ出身のイタリア人騎士フランシスコは、20歳で戦闘に参加したがすぐに病気になり、ベッドの中で人生の意味について考えるようになる。回復するとすっかり人が変わり、戦闘を捨て、宗教に一生を捧げるようになる。1209年、宗教グループを設立。フランシスコ派と呼ばれ、使節団となる。400年後、フランシスコ派はテキサスに渡り、アメリカインディアンをカトリックに改宗させる。

砦の伝道所

はじめて北アメリカに定住したのはスペイン人だった。しかし、1600年代のはじめには、他の国々も定住を始めた。スペイン政府はニュースペインの北の国境の防衛を始める。国境に住むスペイン人の数は少なかったためスペインは伝道士を送り伝道所(missions)を設立。伝道団とともに兵士と市民も送った。兵士は、スペイン人の保護にあたった。このスペイン人のテキサス到着がスペインの植民地時代の幕開けとなる。

伝道には二つの目的があった。一つは、アメリカンインディアンをカトリックに改宗させ、スペインの生活様式を学ばせること。もう一つは、この地におけるスペイン人のプレゼンス(影響力)を強化すること。
伝道所の中には規模の大きなものも出てきて、国境付近のスペイン人の占領が進んだ。

スペイン人は川の近くに伝道所を設立。伝道所の中には、教会、宿舎、作業所、家畜小屋や広場、庭などがあった。スペイン人はインディアンたちが伝道所の中で生活することを望んだ。スペイン人市民の助けもあり、伝道所はインディアンにキリスト教と農業を教えた。当時、インディアンがそのうちにスペイン人になると考えるものも多かった。
アメリカンインディアンの多くは、伝道所の設立と運営を手伝った。しかし、自分の地に伝道所ができ、生活様式を変えられることを望まないインディアンもまた多くいた。伝道所への攻撃から守るために、スペイン人は伝道所の近くに砦(presidios)を立てた。その後、それらの砦はテキサス開拓地の中心となる。
スペインの一般市民は砦や伝道所の近くに定住し、小さな街ができた。農場(ranchos)に住むものも出てきた。農場の中には教会に属するものもあったが、個人のものもあった。こうして、国境付近におけるスペイン人の数は増えていった。

(質問)スペイン人がテキサスの支配を勝ち取るためにしたこととは?

リオグランデ川沿いの開拓地

(P114)
1600年、スペイン人はリオグランデ上流に定住。プエブロ族の近くや農場、1610年に通られたサンタフェなどの街のそばに伝道所を設立した。プエブロ族にスペイン人のための食糧生産をさせようとしたため、緊張が高まった。加えて、伝道師たちは、プエブロ族が伝統的な宗教行事を行うことを禁じようともした。1680年プエブロ族の宗教的指導者Pope(ポペ)がスペイン人に対する反乱を主導。スペイン人定住者たちは、ミューメキシコ北東部からの撤退を余儀なくされる。

プエブロ像の反乱から生き残ったスペイン人はリオグランデ川に沿って南下。約2千人の避難民たちは、エルパソ・デル・ノートルに定住。そのうち300人はスペイン川についたプエブロ族だった。

1684年 リオグランデの南岸に沿って5つの開拓地ができる。イスレタ(Ysleta)はティワ(Tigua)族のために作られ、そこではスペイン人とインディアンが暮らしていた。イスレタはリオグランデの南岸に作られたが、1800年代になると川の氾濫により川の位置が変わりイスレタは川の北岸に位置するようになった。それが今のテキサスである。その結果、イスレタが北アメリカの最初のヒスパニック系の開拓地と考えられている。

そうした中、スペイン人には悪い知らせが届く。フランス人がスペイン領であるはずのメキシコ湾に入ってきたのだ。スペイン人は湾岸領の防衛に注力するようになる。

(質問)なぜ、スペイン人は、リオグランデ沿いに開拓地を作ったのか。









第6章 スペイン統治領時代(1680−1760)

年表

1685年 (テキ)フランス人探検家ラ・サール引きいる開拓者がマタゴルダ湾に到着
1688年 (世界)イギリスで名誉革命 メアリーとウィリアム3世王位に即位
1690年 (テキ)スペイン人 サン・フランシスコ伝道所(mission)を建設
1694年 (世界)フランス人、ミシシッピ川流域のインディアンとビーバーの生皮を取引
1700年 (世界)北米のイギリス人入植地の人口が25万人以上になる。
1718年 (テキ)Martin de Alarcon がサンアントニオに伝道所をつくる。
1718年 (世界)フランス人 ニューオルレアンを発見
1731年 (テキ)カナリア諸島の開拓者がサンアントニオに到着
1732年 (世界)ベンジャミンフランクリン「貧しいリチャードの暦」発行
1755年 (テキ)農場主 トマス・サンチェス大尉 ラレド(Laredo)の町を築く。
1759年 (世界)カルロス3世 スペイン王に即位 スペイン最高の王と知られる。 



2016年10月19日水曜日

5−4 スペイン人の探検のその後

スペイン人探検のその後

オニャーテ、ニューメキシコを築く

コロナドとソト・モスコソの探検では金を見つけられなかったため、スペイン人の役人たちはニュースペイン北部への関心を失った。しかし、黄金都市の伝説は消えなかった。
1500年代興南になると黄金都市の噂がまた広がるようになる。1550年から1590年にかけて、ニュースペインの入植者たちは少しずつ北上。何人かはテキサスにはいり、その豊かさを大げさに語る。スペイン王は、プエブロ族を植民地化することを決意、そうすることによってスペインの富を増やし、キリスト教を布教することを願った。

1598年初頭、スペイン王は フアン・デ・オニャーテに入植の権利を与えた。
オニャーテは500人の入植者とともにChihuahuan砂漠を北上。砂漠の暑さと乾燥に苦しみ3ヶ月後にリオ・グランデに到着。オアシスに喜ぶ。2つの山の間に細い道を見つけ El Paso de Notre (エル・パソ・デ・ノートル = 北への道)と名付ける。

現在のニューメキシコやサンタフェのあるあたりでプエブロ族の村を渡り歩いた。
オニャーテはニューメキシコに初のスペイン人の入植するが、生活は厳しく、金は見つからなかったために北東のキビラを目指す。
1601年、テキサスのパンハンドル(回廊地帯)を横断した小さなグループはここでも金を見つけることができなかった。その後80年間はほとんど誰もこの地域に入らなかった。
ニューメキシコは栄えた。エル・パソ・デ・ノートルを通って、人々はメキシコとニューメキシコを行き来した。
1689年、この道沿いに伝道僧が定住するようになる。これがTrans-Pecosと呼ばれる地域で、100年後にはテキサスの一部となる。

(質問)オニャーテが1598年に達成したことはなにか?

スペイン人の探検の功績

金を見つけることはできなかったものの、スペイン人のテキサス探検は重要な意味を持つ。スペインが広大な土地の権利を主張できるようになり、その土地の原住民やその生活についての知識を得た。テキサスは、南のスペインの植民地とアメリカのインディアンと中間に位置する緩衝地帯としての役割を果たすようになる。

同時に、スペインの探検は、アメリカインディアンの生活を劇的に変えた。ヨーロッパの探検者たちは、意図せずに、はしか(measle)や天然痘(smallpox)などの疫病(
epidemics)を広めてしまった。当時、これらの病気に免疫のなかったアメリカインディアンたちは疫病と紛争で何千人も命を落とした。

ヨーロッパとアメリカ大陸の間で行われた植物、動物、疫病の移動はコロンブス交換と呼ばれる。
1492年にコロンブスがアメリカの島に到着したとき、スペインは、バナナ、家畜、馬などを持ち込んだ。そして、とうもろこし、ピーナッツ、七面鳥などをスペインに持ち帰った。

質問)コロンブス交換とは何か? それがどのようにしてテキサスに住むインディアンに影響を与えたか?

平原における乗馬文化の台頭

スペイン人がアメリカに持ち込んだ強い馬の子孫はムスタング(mustang)と呼ばれる。
1600年代、テキサスのインディアンは交易や強奪によって馬を手に入れて行った。馬は特に平原のインディアンの生活を変えた。行動範囲が広がり、狩りや戦闘の技術が向上した。
1659年に、ニューメキシコのスペイン人が、馬に乗るアパッチ族を初めて目撃。スペイン人は軍事的優位性の一つを失い、その後のスペイン人とインディアンの関係も変わっていく。

質問)平原のインディアンの発展を支えた文化とはなにか?その発展はスペイン人に対しどのような影響を与えたのか?

アパッチ族 平原を支配する。

最初は友好的だったアパッチ族は、プエブロ地域のスペイン人を襲うようになる。
スペイン人が探検した土地は、インディアンが住んでいた土地でもあり、両者が土地の権利を主張するようになる。

質問) その後、アパッチ族とスペイン人の関係はどのようにして変わっていったか。


5−3 黄金都市を探して

黄金都市を探して

スペインには黄金の7都市という伝説がある。700年代にポルトガルが侵略された時に、キリスト教の僧侶が大西洋を渡って逃げたところ、金や宝石に満ちた国ににたどり着いたという。そこで僧侶たちは7つの黄金の都市を建造した。誰も場所は知らないが、スペイン人は南北アメリカにあると信じた。すでにいくつもの帝国は発見されているのだから、残りもあるはずだ、と。

黄金都市を探して

スペインへ帰国前、カベザ・デ・バカはメキシコの役人たちに、北の山脈には大勢の人が住む都市がいくつもあると聞いた、と語った。
この話を聞いたニューメキシコの総督(viceroy)は、エステバニコをガイドにして、カトリックの托鉢就業しマルコス・デ・ニザを派遣。300人のメキシコ・インディアンを護衛としてつけた。
マルコス探検隊は、現在のアリゾナからニューメキシコへと入っていった。先に行っていた隊から黄金の都市の話を聞くがエステバニコはズニ族に殺害される。
マルコス托鉢僧は、高い山に登り、谷を挟んで遠くから輝く都市を確認するとメキシコシティにもどり、黄金都市を発見したと報告。その都市はCibolaと呼ばれた。シボラの噂は瞬く間に広まり、メキシコの役人たちは宝を目指して探検の計画を立て始めた。

コロナド シボラをめざす

シボラを征服するためにスペイン人はかつてないほど大規模な遠征隊を結成。300人の兵士、宗教関係者、1000人のメキシコ人奴隷、家畜、馬、羊。隊長はフランシスコ・バスケス・デ・コロナド、30才のコンキスタドールである。黄金の甲冑を身に付け、1540年4月、マルコス修道士を伴い、シボラを目指した。

マルコス修道士が見たという都市につうと、そこにはズニ族が待ち受けていた。短く激しい戦いの末、ズニ族を制圧したが、金も銀も見つからなかった。煉瓦造りの街並みが太陽に反射して黄金のように見えただけだった。コロナドは激怒し、マルコスをメキシコシティに送り返した。

質問)どうしてシボラが黄金でできているとスペイン人は考えたのか?

コロナド キビラの噂を聞く

コロナドはがっかりしたもの、探検隊を派遣して、財宝を探させた。Garcia Lopes de Cardenas はグランド・キャニオンを発見。他のグループは現在のニューメキシコのリオグランデの近くにあるTiguexを探検。その地に住むティワ(Tigua)族はスペイン人に対して友好的だったため、コロナドは兵をその地に移す。
Tiguex滞在中、スペイン人はずっと東からきたTurk人に出会い、黄金都市Quiviraの話を聞く。Ciboraのこともあり、多くのスペイン人は信じなかったが、コロナドは賭けることにした。しかし冬がきて、食料などが乏しくなると、コロナドはティワ族と対立。スペイン人は多くのティワ族を殺害する。

質問)Turk人とは誰か。どうして彼の話にコロナドは興味を持ったのか。

コロナド テキサスを旅する

1541年コロナドはTurk族をガイドにQuiviraを探しに行く。探検隊はテキサス州北部の平原、パンハンドル、リャノ・エスタカードを通過。バッファローを目撃。バッファローを狩る平原のインディアンに出会う。東進するとCaprock崖線を過ぎ、探検隊はPalo Duro Canyon渓谷を発見する。渓谷を北上して現在のカンザス州 Wichitaに到着した。ところがそこにも宝はなかった。怒ったコロナドがTurk人に問いただすと、探検隊に村から出て行ってもらいたいティワ族に頼まれて嘘をついたことを告白。コロナドはTurk人を殺害。
1542年、コロナドはメキシコシティに帰還。金は見つからなかったので探検は失敗とみなされた。

質問) コロナドがテキサス州で見た動物と地理的な地形は?

モソコソ、テキサス東部を探検

コロナドがシボラについた頃、1539年エルナンド・デ・ソトが600名の兵士とともに、フロリダに上陸。2年間、現在のアメリカ南東部を探検した。1542年、ソトは熱病で死亡。ルイ・ド・モスコソ・アルバラドが指揮をとった。その後、モスコソ探検と呼ばれる。テキサス東部で多くのCaddo族に出会う。徒歩でのメキシコ帰還を断念し、船を作り、ミシシッピ川を下り成功。1543年に300人はメキシコに戻った。
メキシコに帰還後、モスコソの報告はコロナドと似ていた。テキサスは地理的に多様な地形であること。この時、のちに「黒い金」と呼ばれる石油を見つけるがその時は価値がわからず、この探検も失敗とみなされた。

質問)モスコソの報告の後、スペイン人の役人たちは、テキサスにもっと探検隊を送りたいと思ったか?



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5−2 スペイン人のテキサス探検

スペイン人のテキサス探検

1519年、スペイン人の探検家、アロンソ・アルバレス・デ・ピネダ ジャマイカからメキシコ湾を航海した。すでにスペインが支配していたフロリダから西に向かうと、Penuco川がありインディアンの村もあった。ピネダは植民地建設を決意。兵士を数人残し、ジャマイカに必要な物資を取りに行ってから戻ると、兵士たちはインディアンの襲撃によって殺害されていた。

ピネダとその船員は、テキサスを見た初めてのヨーロッパ人。ピネダは、メキシコ湾の北側の海岸の地図を作成した。彼らがテキサスに上陸したという証拠はないが、スペイン人はこの地に興味を抱くようになる。

1527年 パンフィロ・デ・ナルバエス 600名の兵士と馬を乗せて、フロリダのタンパベイに到着。アメリカのインディアンが金や宝石をつけているので聞いてみると北のApalacheeに黄金があるという。ナルバエス探検隊は、兵を2分し、300人を連れてApalacheeに向かう。沼地やインディアンの襲撃に耐えながらApalacheeについたものの金は見つからず、海岸に引き返すと、待っているはずの船は帰国してしまっていた。途方にくれた餓死寸前の探検隊は馬を食べなければならなかった。この時のことを、生き残ったアルバル・ヌニェス・カベサ・デ・バカは「このひどい土地から離れる唯一の方法は死しかないと絶望した」と書き綴っている。
そのあたりにあるものを使って船を作ったが嵐が来て船長ナルバエスも行方不明に。80名がガルベストンかセントルイスの近くの島にたどり着く。冬の到来を目前にして持ち物も着るものも希望も失った生存者の目の前に現れたのはカランカワ族。1528年のことであった。カランカワ族は生存者の状況に驚き、食料や衣類を提供。でも十分ではなく、その冬にほとんどのスペイン人は死亡。残ったものは奴隷にされ、重労働を課せられた。

質問)ナルバエス探検隊がフロリダからメキシコへ航海する時に襲った悲劇とは?

スペイン人のテキサス探検

(P96)
カベザ・デ・バカはCoahuiltecan族に捕らえられた。その時、他の3人の生き残りと出会う。2年間、奴隷として働きながら計画を立て、4人は脱走。メキシコを目指して旅立つ。途中、インディアンの村(Atakapas, Karankawas, Coahuiltecans)を転々とする。
ある村で、カベザ・デ・バカは、胸に矢が当たった男から矢を抜き縫合した。その手術に驚いたインディアンは彼を治療者と崇めるようになる。4人のうちの一人、エスティバニコはモロッコ出身の奴隷で、アメリカ大陸に上陸した初のアフリカ人である。何種類ものインディアン言語を話し通訳として活躍した。村から村へ移動する4人には多くのインディアンが道案内をした。
1536年 遭難から8年後、4人はスペイン兵と出会い、メキシコシティーに帰り、スペインに戻った。
1542年、カベザ・デ・バカはこの旅行記を出版。北アメリカの人々の文化や生活について表した。どんな食べ物を食べどのように子育てをするかが書かれており、バッファローやテキサスの植物についての記載もあった。

質問)アメリカのインディアンたちはどうして4人についてまわったのか。






5−1 ヨーロッパ人 アメリカに到着 

第1節 ヨーロッパ人 アメリカに到着 

(教科書P90)

要点
  • 1492年 クリストファー・コロンブスがヨーロッパからアメリカに到着。
  • スペインは、金と栄光手に入れ、キリスト教を広めるために南米アメリカの支配を望む
  • 1519年 エルナン・コルテスがアステカ文明を征服
1300年代 スパイスは貴重品 当時ヨーロッパからアジア、アフリカに行く交易路は砂漠と盗賊のために危険に満ちていた。
1400年代 西ヨーロッパ各国はアジアへの海路を見つける競争が繰り広げられていた。

コロンブス アメリカに出航

イタリア人航海士、クリストファー・コロンブスは西回りで大西洋を渡ってアジアに行けると信じた。これは当時非常に大胆な考え方であったが、結局、フェルディナンド王とイザベラ王女はコロンブスに3隻の船を与えた。

1492年 8月3日に出航 何週間経っても陸地が見えず、船員が苛立ってきた頃の10月12日、カリブ海にある現在のバハマに到着。コロンブスはその地を、San Salvador(救世主)と名付ける。コロンブスは、インドに到着したと誤解していた。

質問)フェルナンド王とイザベラ女王が、コロンブスの支援をした理由は?

スペイン人のアメリカ征服

当時のスペインは、領土の拡大、富の入手、キリスト教の布教を求めていたため、探検者や教会関係者に対し、カリブに行く許可を出していた。これらの探検にはコンキスタドール(conquistadores)という、栄光と金と土地を求める探検征服兵士が先導した。

コンキスタドールはカリビアン人に対して、甲冑(armor)、鋼鉄のかぶと(steel helmets)、マスケット銃(muskets)、装飾が施された剣(finely cragted swords)、強靭な馬(mighty horse)といった 当時のカリブ人が見たこともないような軍事的優位性を持ち、次々とカリブ諸国を制圧し、アメリカ本土を目指すようになる。

質問)コンキスタドールがカリブ人制圧するのに役立った強みとは?

(教科書P92)

コルテス メキシコに軍を進める。

1519年 エルナン・コルテスがスペイン領キューバからメキシコの東海岸に出航。アメリカ本土最初のスペイン人入植地 La Villa Rica de Vera Crus を造る。この定植地は今でもVeracruzとして残っている。 上陸後、スペイン人は、モクテスマ2世が治めるアステカ帝国のことを知る。コルテスはアステカ征服を決意。1隻を国に戻し、残りの船を全て沈め、退却できないようにする。アステカ帝国は何百万人もの人々支配していたが、インディアンの女性マリンシュン(マリンチェ)がコルテス側につき、征服された人々に対し、コルテス側につくように説得、アステカ帝国の首都のテノチティトラン(Tenochititlan) に到着するころには、何千人もがコルテスの兵に追随していた。テノチティトランは大きな湖の中央にあり、兵士たちはその美しさに息を飲んだ。

質問) アステカ帝国がどんな弱みを使って、コルテスは軍隊の規模を増大したのか?

(教科書P93)

コルテス アステカを征服

アステカには金銀財宝が山のようにあった。モクテスマはコルテスに対し、宝物を貢ぎ、友好関係を求めるが、その量では足りぬとコルテスはモクテスマを人質にする。アステカの征服方法を考えているうちに、アステカ人とスペイン人との間で争いが怒り、1520年6月30日、スペイン人は街から逃走。コルテスは新たな急襲を画策し、メキシコインディアンを説得し大砲を積んだ船を作らせた。1521年5月、スペイン人と協力者は再びテノチティトランを攻撃。長く激しい戦いの末の8月、アステカ人の多くは殺害されたり、奴隷にされ、テノチティトランは廃墟となった。

スペインはアステカ帝国の多くの富と土地を手に入れた。スペイン人は金銀財宝をスペインに送り、テノチティトランの上にメキシコシティを建造。のちにカリフォルニアからフロリダまで広がるニューメキシコの首都となる。メキシコはスペインのアメリカ探検の起点となる。スペインは1600年まで、こうした探検によって領土を拡大する。

質問
アステカ帝国とスペイン領アメリカのはどういう点で似ているか?

第1節の復習

1) コンキスタドールとは何か 
2)次の人たちの重要な点を説明しなさい。
  • クリストファー・コロンブス 
  • フェルナンド王とイザベラ女王
  • エルナン・コルテス
  • モクテスマ2世
3)スペイン人がアメリカの帝国を征服したかった理由を4つ書きなさい。
4)a クリストファー・コロンブスが1492年にしたことは?
  b 1519年のメキシコへの定住が重要だった理由は?
5)記述とクリティカル・シンキング
あなたはコルテス探検隊の一因です。あなたのメキシコ探検の日誌を書きなさい。起こった出来事を正しい順序で綴りなさい。次の2点を含めること
  • テノチティトランへの進軍
  • アステカ帝国征服






第5章 アメリカの原住民との出会い (1492年~1670年)

1500年代、この時代、スペインのコンキスタドール(征服者)をはじめとするヨーロッパ人がテキサスに到着し、アメリカのインディアンと出会います。
 
1492年 (世界)クリストファー・コロンブスがバハマに到着
1519年 (世界)エルナン・コルテスがアステカ帝国征服開始
1519年 (テキ)アロンソ・アルバレス・デ・ピネダ テキサスの海岸の地図作成
1527年 (テキ)パンフィロ・デ・ナルバエス フロリダ探検 船が難破
      (テキ)ナルバエス隊の生き残りカベサ・デ・バカら4人 徒歩でメキシコへ。
1532年 (世界)フランシスコ・ピサロ 南米のインカ帝国征服開始
1539年 (テキ)エルナンド・デ・ソト フロリダ上陸 ミシシッピ川に到達
1541年 (テキ)フランシスコ・バスケス・デ・コロナド テキサスのパンハンドル横断
1554年 (テキ)スペインの宝船 現在のパドレ島沖合で沈没
1565年 (世界)ペドロ・メネンディス フロリダ到着。最初のヨーロッパ人定住者
1574年 (世界)南北アメリカに152,500人のスペイン人入植者
1581年 (テキ)スペイン人 Hernan Gallegos がJumanoインディアンについて記録
1601年 (テキ)フアン・デ・オニャーテがQuivira(キビラ)を求めてパンハンドル横断
1609年 (世界)イギリス船長ヘンリー・ハドソンがアメリカ東海岸東部の川を探検
1621年 (世界)アメリカ原産のジャガイモがドイツで初めて植えられる
1657年 (世界)英海軍 スペインの西インド艦隊撃破
1659年 (テキ)スペイン人 アパッチ族が馬に乗っていることを初めて記録


2016年10月10日月曜日

はじめに


このブログでは、テキサス州に通う中学生が使っている「テキサスの歴史」の教科書を訳しています。

アメリカに来たばかりの子どもの勉強を手伝おうと、また、自分の英語力をキープしたいと思って訳し始めました。

ただ、とても分厚い教科書ですし、もちろんボランティアですし、子どもは手助けなどもう必要なくなってきているので、途中でやめてしまうかもしれません。

でも、自分の子どもだけではなく、だれかの役に立てたら頑張れると思って公開することにしました。

日本から来たばかりの生徒さんは、このブログをざっと読んでから英語の教科書を読むと授業の理解が深まるでしょう。

アメリカ生活が長い生徒さんは、日本語で読むことで、バイリンガルになるでしょう。

ご家族の方は、お子様との共通の話題が増えるでしょう。

史跡巡りが楽しくなったり、映画やテキサス人の精神がよりよく分かったり、いいことづくめです。

7年生の授業に追いつかれないスピードで1年かけて訳していこうと思っています。

一字一句訳すときもありますし、ざっくりと要約するときもあります。


ひとつお断りがあります。

これは、あくまでも一個人が空いた時間に急いで訳しているものです。

翻訳としては正確さに欠けるため、責任は全く負えません。引用はお断りします。
ページ番号を入れていますので、原書に戻って引用をしてください。

欲を言えば、仲間がいれば嬉しいです。

誤訳や誤字があればコメント欄かこちらまでご連絡ください。アドバイスを下さる方、その時代背景がよりよくわかるようなオススメの映画や本、史跡なども教えてください。
ただ、応援してくれるだけでも嬉しいです。

そういう人たちがいれば、私はもっと頑張れると思います。

それでは、テキサス州の歴史のはじまり、はじまり。