2016年10月19日水曜日

5−2 スペイン人のテキサス探検

スペイン人のテキサス探検

1519年、スペイン人の探検家、アロンソ・アルバレス・デ・ピネダ ジャマイカからメキシコ湾を航海した。すでにスペインが支配していたフロリダから西に向かうと、Penuco川がありインディアンの村もあった。ピネダは植民地建設を決意。兵士を数人残し、ジャマイカに必要な物資を取りに行ってから戻ると、兵士たちはインディアンの襲撃によって殺害されていた。

ピネダとその船員は、テキサスを見た初めてのヨーロッパ人。ピネダは、メキシコ湾の北側の海岸の地図を作成した。彼らがテキサスに上陸したという証拠はないが、スペイン人はこの地に興味を抱くようになる。

1527年 パンフィロ・デ・ナルバエス 600名の兵士と馬を乗せて、フロリダのタンパベイに到着。アメリカのインディアンが金や宝石をつけているので聞いてみると北のApalacheeに黄金があるという。ナルバエス探検隊は、兵を2分し、300人を連れてApalacheeに向かう。沼地やインディアンの襲撃に耐えながらApalacheeについたものの金は見つからず、海岸に引き返すと、待っているはずの船は帰国してしまっていた。途方にくれた餓死寸前の探検隊は馬を食べなければならなかった。この時のことを、生き残ったアルバル・ヌニェス・カベサ・デ・バカは「このひどい土地から離れる唯一の方法は死しかないと絶望した」と書き綴っている。
そのあたりにあるものを使って船を作ったが嵐が来て船長ナルバエスも行方不明に。80名がガルベストンかセントルイスの近くの島にたどり着く。冬の到来を目前にして持ち物も着るものも希望も失った生存者の目の前に現れたのはカランカワ族。1528年のことであった。カランカワ族は生存者の状況に驚き、食料や衣類を提供。でも十分ではなく、その冬にほとんどのスペイン人は死亡。残ったものは奴隷にされ、重労働を課せられた。

質問)ナルバエス探検隊がフロリダからメキシコへ航海する時に襲った悲劇とは?

スペイン人のテキサス探検

(P96)
カベザ・デ・バカはCoahuiltecan族に捕らえられた。その時、他の3人の生き残りと出会う。2年間、奴隷として働きながら計画を立て、4人は脱走。メキシコを目指して旅立つ。途中、インディアンの村(Atakapas, Karankawas, Coahuiltecans)を転々とする。
ある村で、カベザ・デ・バカは、胸に矢が当たった男から矢を抜き縫合した。その手術に驚いたインディアンは彼を治療者と崇めるようになる。4人のうちの一人、エスティバニコはモロッコ出身の奴隷で、アメリカ大陸に上陸した初のアフリカ人である。何種類ものインディアン言語を話し通訳として活躍した。村から村へ移動する4人には多くのインディアンが道案内をした。
1536年 遭難から8年後、4人はスペイン兵と出会い、メキシコシティーに帰り、スペインに戻った。
1542年、カベザ・デ・バカはこの旅行記を出版。北アメリカの人々の文化や生活について表した。どんな食べ物を食べどのように子育てをするかが書かれており、バッファローやテキサスの植物についての記載もあった。

質問)アメリカのインディアンたちはどうして4人についてまわったのか。






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