2016年10月22日土曜日

6−1 スペイン人 国境付近で定住を始める

スペイン人 国境付近で定住を始める

(時代背景)
アッシジ出身のイタリア人騎士フランシスコは、20歳で戦闘に参加したがすぐに病気になり、ベッドの中で人生の意味について考えるようになる。回復するとすっかり人が変わり、戦闘を捨て、宗教に一生を捧げるようになる。1209年、宗教グループを設立。フランシスコ派と呼ばれ、使節団となる。400年後、フランシスコ派はテキサスに渡り、アメリカインディアンをカトリックに改宗させる。

砦の伝道所

はじめて北アメリカに定住したのはスペイン人だった。しかし、1600年代のはじめには、他の国々も定住を始めた。スペイン政府はニュースペインの北の国境の防衛を始める。国境に住むスペイン人の数は少なかったためスペインは伝道士を送り伝道所(missions)を設立。伝道団とともに兵士と市民も送った。兵士は、スペイン人の保護にあたった。このスペイン人のテキサス到着がスペインの植民地時代の幕開けとなる。

伝道には二つの目的があった。一つは、アメリカンインディアンをカトリックに改宗させ、スペインの生活様式を学ばせること。もう一つは、この地におけるスペイン人のプレゼンス(影響力)を強化すること。
伝道所の中には規模の大きなものも出てきて、国境付近のスペイン人の占領が進んだ。

スペイン人は川の近くに伝道所を設立。伝道所の中には、教会、宿舎、作業所、家畜小屋や広場、庭などがあった。スペイン人はインディアンたちが伝道所の中で生活することを望んだ。スペイン人市民の助けもあり、伝道所はインディアンにキリスト教と農業を教えた。当時、インディアンがそのうちにスペイン人になると考えるものも多かった。
アメリカンインディアンの多くは、伝道所の設立と運営を手伝った。しかし、自分の地に伝道所ができ、生活様式を変えられることを望まないインディアンもまた多くいた。伝道所への攻撃から守るために、スペイン人は伝道所の近くに砦(presidios)を立てた。その後、それらの砦はテキサス開拓地の中心となる。
スペインの一般市民は砦や伝道所の近くに定住し、小さな街ができた。農場(ranchos)に住むものも出てきた。農場の中には教会に属するものもあったが、個人のものもあった。こうして、国境付近におけるスペイン人の数は増えていった。

(質問)スペイン人がテキサスの支配を勝ち取るためにしたこととは?

リオグランデ川沿いの開拓地

(P114)
1600年、スペイン人はリオグランデ上流に定住。プエブロ族の近くや農場、1610年に通られたサンタフェなどの街のそばに伝道所を設立した。プエブロ族にスペイン人のための食糧生産をさせようとしたため、緊張が高まった。加えて、伝道師たちは、プエブロ族が伝統的な宗教行事を行うことを禁じようともした。1680年プエブロ族の宗教的指導者Pope(ポペ)がスペイン人に対する反乱を主導。スペイン人定住者たちは、ミューメキシコ北東部からの撤退を余儀なくされる。

プエブロ像の反乱から生き残ったスペイン人はリオグランデ川に沿って南下。約2千人の避難民たちは、エルパソ・デル・ノートルに定住。そのうち300人はスペイン川についたプエブロ族だった。

1684年 リオグランデの南岸に沿って5つの開拓地ができる。イスレタ(Ysleta)はティワ(Tigua)族のために作られ、そこではスペイン人とインディアンが暮らしていた。イスレタはリオグランデの南岸に作られたが、1800年代になると川の氾濫により川の位置が変わりイスレタは川の北岸に位置するようになった。それが今のテキサスである。その結果、イスレタが北アメリカの最初のヒスパニック系の開拓地と考えられている。

そうした中、スペイン人には悪い知らせが届く。フランス人がスペイン領であるはずのメキシコ湾に入ってきたのだ。スペイン人は湾岸領の防衛に注力するようになる。

(質問)なぜ、スペイン人は、リオグランデ沿いに開拓地を作ったのか。









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