2016年10月22日土曜日

6−2 フランス領テキサス

フランス領テキサス

(P115)

ラ・サールの探検

1600年代になると、スペイン以外の国々も北アメリカに進出。イギリスは東岸に開拓地を作り、フランスもスペインの国境支配を脅かすようになる。フランスはカナダ方面に進出。フランス人毛皮商人らは五大湖、オハイオ、ミズーリ、ミシシッピ川を探検。
1682年、フランス人探検家、ルネ・ロベール・カブリエ・シユール・ド・ラ・サールはフランスの領土拡大のために探検を続け、ミシシッピ川を下ってメキシコ湾の河口に到達。ここにラ・サールはフランス国旗を立て、ミシシッピ川が潤す五大湖からメキシコ湾に広がる全ての土地をフランスのものだと主張。

ラ・サールは、この地域を、フランス王ルイ14世の名前をとって、ルイジアナと名付けた。この地域を探検したのち、ラ・サールは一旦フランスに戻り、ミシシッピ川の河口付近に開拓地を作る許可を求めた。ラ・サールは、この地域の開拓をすれば、ルイジアナがフランスの領土となり、ニュースペインにある銀鉱山を持つスペイン領に進出する軍事拠点になると主張。貴重な毛皮貿易に使える港も手に入り、うまくいけば、スペイン人入植者との貿易もできるようになるかもしれないと語った。

ルイ14世はラ・サールの提案に同意。開拓地がスペイン領のテキサスに近いため、スペインを刺激しないように、計画は秘密裏に行われることになった。ミシシッピ川河口付近にそっと進出し、スペイン人が気付く前に開拓地を打ち立てようとした。

1684年の夏、300人の兵士と開拓者を乗せたラ・サールの探検隊の4隻の船はフランスを出航。ところが1隻がスペイン人の海賊に捕らわれ、脱走した数人がスペイン人にラ・サールの計画を漏洩。そうした中でも、ラ・サールは探検を続けたが、航路に迷い、船はミシシッピ川の河口を通り過ぎ、1685年、テキサスの湾岸のマタゴルダ湾に到着した。そこで1隻の船が貴重な食料物資を乗せたまま座礁(aground)。もう一隻はフランスに帰還。開拓者たちはほとんど食料や物資がなく、全く準備不足の状態で厳しい自然に残された。

セントルイス砦


残されたラ・サール探検隊は、この沼だらけの低地では生き延びれないことをすぐに理解。内陸に進み、Garcitas Creek のそばにセントルイス砦を築く。この地には数軒の簡単な住居と沈没した船の木材で作った5部屋の砦が作られた。5部屋の内の1部屋は教会のチャペルだった。防衛のため、砦の壁に8つの大砲が設置された。

開拓地が作られている間に、ラ・サール隊は小さなグループを率いてリオグランデの方向に西進。彼らはスペイン人の銀鉱山や食料を求めていたのかもしれない。1685年10月から翌年3月まで、ラ・サールは砦から遥か遠くまで探検。そしてセントルイス砦がミシシッピ川の西側にあったことにようやく気付くのだが、その前にリオグランデに到達していた可能性もある。

一方、開拓地の生活は厳しかった。飢餓や病気で多くの開拓者が命を失った。また、ラ・サール探検隊に腹を立てたカランカワ族からの襲撃からも守らなければならなかった。1685年7月末には半数以上の開拓者が死亡した。開拓地のリーダーたちが喧嘩を始め状況は悪化。ラ・サールは1686年3月に危機的な砦に帰還。たった一層残っていた船ラ・ベール号が嵐によって沈没すると開拓者たちは行く手を失った。

ラ・サールは助けを求めてカナダに行くことを決意。しかし、ミシシッピ川まで東方の荒野を抜けるのは困難を極め、探検は失敗に終わる。1687年初頭ラ・サールと17人の探検者たちは再び東を目指す。テキサス南東部を進むが緊張は高まる。隊員たちは口論を始め、ラ・サールは兵士の一人に殺害される。カナダに戻れたのは6名だけだった。

開拓地に残されたものも30名以下。そのほとんどが女と子供であった。カランカワ族が襲撃し、1688年か1689年に砦を突破。全ての大人を殺し、砦を破壊した。5人の子どもがカランカワ族に捕らわれ、その後、救出されるまで捕らわれの身となった。

ラ・サール探検隊は悲惨な結果に終わった。失敗はしたものの、この探検のおかげで、フランスはテキサスの領有権を主張できるようになり、リオグランデの北にあるスペイン領に挑戦する形となった。

(質問) セントルイス砦が失敗した理由は?

スペイン人、ラ・サールを探す


セントルイス砦の設立直後から、スペインはフランス人をテキサスから追い出そうとした。スペインは陸から6つの探検隊、海から5つの探検隊を送った。1686年、1687年には開拓地を見つけ出すことができなかったが、探索中に、スペインはテキサス東南部の地理を学ぶことができた。

スペイン人探検家、アロンソ・ド・レオン(Alonso de Leon) は1689年に探検隊を率い、フランシスコ教会のダミアン・マサネ神父も同行した。フランス人の基地を発見することはできなかったが、探検隊はインディアンと生活をする二人のフランス人の生き残りを発見。ド・レオンは彼らをメキシコシティに連れ帰り尋問。スペイン政府はド・レオンを再びテキサスに派遣し、砦を探させた。ド・レオンはついに開拓地を発見。その時の様子を次のように書き綴っている。

「野原に散らばる3人の死体を発見。一つは骨にくっついていた服から女性のものだとわかった。もっと死体を探したが見つけることはできなかった。多分、小川に投げ入れられワニの餌食になったのだろう。」

フランス人開拓地の発見に加えて、スペイン人は探検中、ハシナイ(Hasinais)族と出会う。スペイン人は彼らのことを、ハシナイ族の言葉で「友達」を意味するTejas (テハス)と呼ぶようになる。マサネ神父は、ハシナイ族が伝道所の設立に関心があると信じた。探検から帰ると、探検隊は学んだことを提督(viceroy)に報告した。

質問) フランス人開拓地を探す途中でスペイン人が達成したことは何か?

テキサス東部におけるスペイン人伝道団


アロンソ・ド・レオンとマサネ神父はこの地域とテハス族に好印象を抱き、メキシコシティに到着するや否や、提督にこの地に伝道所を設立することを提言。ド・レオンは、伝道所の周りに砦を築き、軍事的影響力を広げることを主張したが、マサネ神父は、兵士は伝道活動の足かせになると反対。スペイン政府はマサネの計画を採用。
1690年初期、ド・レオンとマサネ神父は数人の伝道士と100人の兵士とともにテキサスに戻った。テハス族の土地に到着し、この地域がスペイン王のものであると宣言。ネチェス川の西岸に伝道所を築いた。たった数日後にはサン・フランシスコ・ド・ロス・テハスの建物が建造された。ド・レオンとマサネ神父は、3人の修道士と3人の兵士を伝道所に残して、メキシコに帰国。テハス族も伝道師たちも伝道所の未来に希望を抱いていた。

1691年 マサネ神父は、最初のスペイン領テキサスのGoverner Domingo Teran de los Rios を連れて伝道所に戻った。しかし、両者の間で論争がおき、伝道師たちの間に緊張感が生まれた。干ばつや洪水で伝道所内の作物が枯れ、物資は乏しくなり、スペイン人たちはトウモロコシパンしか食べるものがなかった。伝道所内のテハス族は牛の皮を食べて生き延びた。

テハス族が宗教の教えを望んでいないことがわかり、スペイン人は失望した。病気が発生すると、テハス族はスペイン人が病気を持ち込んだと非難、この地を去るしかないと気づいたスペイン人は、1693年10月25日、伝道所を焼き払い、教会の鐘を埋めてメキシコに逃げ帰った。

質問)なぜ、スペイン人はテキサス東部を去ったのか。

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