2016年10月19日水曜日

5−4 スペイン人の探検のその後

スペイン人探検のその後

オニャーテ、ニューメキシコを築く

コロナドとソト・モスコソの探検では金を見つけられなかったため、スペイン人の役人たちはニュースペイン北部への関心を失った。しかし、黄金都市の伝説は消えなかった。
1500年代興南になると黄金都市の噂がまた広がるようになる。1550年から1590年にかけて、ニュースペインの入植者たちは少しずつ北上。何人かはテキサスにはいり、その豊かさを大げさに語る。スペイン王は、プエブロ族を植民地化することを決意、そうすることによってスペインの富を増やし、キリスト教を布教することを願った。

1598年初頭、スペイン王は フアン・デ・オニャーテに入植の権利を与えた。
オニャーテは500人の入植者とともにChihuahuan砂漠を北上。砂漠の暑さと乾燥に苦しみ3ヶ月後にリオ・グランデに到着。オアシスに喜ぶ。2つの山の間に細い道を見つけ El Paso de Notre (エル・パソ・デ・ノートル = 北への道)と名付ける。

現在のニューメキシコやサンタフェのあるあたりでプエブロ族の村を渡り歩いた。
オニャーテはニューメキシコに初のスペイン人の入植するが、生活は厳しく、金は見つからなかったために北東のキビラを目指す。
1601年、テキサスのパンハンドル(回廊地帯)を横断した小さなグループはここでも金を見つけることができなかった。その後80年間はほとんど誰もこの地域に入らなかった。
ニューメキシコは栄えた。エル・パソ・デ・ノートルを通って、人々はメキシコとニューメキシコを行き来した。
1689年、この道沿いに伝道僧が定住するようになる。これがTrans-Pecosと呼ばれる地域で、100年後にはテキサスの一部となる。

(質問)オニャーテが1598年に達成したことはなにか?

スペイン人の探検の功績

金を見つけることはできなかったものの、スペイン人のテキサス探検は重要な意味を持つ。スペインが広大な土地の権利を主張できるようになり、その土地の原住民やその生活についての知識を得た。テキサスは、南のスペインの植民地とアメリカのインディアンと中間に位置する緩衝地帯としての役割を果たすようになる。

同時に、スペインの探検は、アメリカインディアンの生活を劇的に変えた。ヨーロッパの探検者たちは、意図せずに、はしか(measle)や天然痘(smallpox)などの疫病(
epidemics)を広めてしまった。当時、これらの病気に免疫のなかったアメリカインディアンたちは疫病と紛争で何千人も命を落とした。

ヨーロッパとアメリカ大陸の間で行われた植物、動物、疫病の移動はコロンブス交換と呼ばれる。
1492年にコロンブスがアメリカの島に到着したとき、スペインは、バナナ、家畜、馬などを持ち込んだ。そして、とうもろこし、ピーナッツ、七面鳥などをスペインに持ち帰った。

質問)コロンブス交換とは何か? それがどのようにしてテキサスに住むインディアンに影響を与えたか?

平原における乗馬文化の台頭

スペイン人がアメリカに持ち込んだ強い馬の子孫はムスタング(mustang)と呼ばれる。
1600年代、テキサスのインディアンは交易や強奪によって馬を手に入れて行った。馬は特に平原のインディアンの生活を変えた。行動範囲が広がり、狩りや戦闘の技術が向上した。
1659年に、ニューメキシコのスペイン人が、馬に乗るアパッチ族を初めて目撃。スペイン人は軍事的優位性の一つを失い、その後のスペイン人とインディアンの関係も変わっていく。

質問)平原のインディアンの発展を支えた文化とはなにか?その発展はスペイン人に対しどのような影響を与えたのか?

アパッチ族 平原を支配する。

最初は友好的だったアパッチ族は、プエブロ地域のスペイン人を襲うようになる。
スペイン人が探検した土地は、インディアンが住んでいた土地でもあり、両者が土地の権利を主張するようになる。

質問) その後、アパッチ族とスペイン人の関係はどのようにして変わっていったか。


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