2016年10月19日水曜日

5−3 黄金都市を探して

黄金都市を探して

スペインには黄金の7都市という伝説がある。700年代にポルトガルが侵略された時に、キリスト教の僧侶が大西洋を渡って逃げたところ、金や宝石に満ちた国ににたどり着いたという。そこで僧侶たちは7つの黄金の都市を建造した。誰も場所は知らないが、スペイン人は南北アメリカにあると信じた。すでにいくつもの帝国は発見されているのだから、残りもあるはずだ、と。

黄金都市を探して

スペインへ帰国前、カベザ・デ・バカはメキシコの役人たちに、北の山脈には大勢の人が住む都市がいくつもあると聞いた、と語った。
この話を聞いたニューメキシコの総督(viceroy)は、エステバニコをガイドにして、カトリックの托鉢就業しマルコス・デ・ニザを派遣。300人のメキシコ・インディアンを護衛としてつけた。
マルコス探検隊は、現在のアリゾナからニューメキシコへと入っていった。先に行っていた隊から黄金の都市の話を聞くがエステバニコはズニ族に殺害される。
マルコス托鉢僧は、高い山に登り、谷を挟んで遠くから輝く都市を確認するとメキシコシティにもどり、黄金都市を発見したと報告。その都市はCibolaと呼ばれた。シボラの噂は瞬く間に広まり、メキシコの役人たちは宝を目指して探検の計画を立て始めた。

コロナド シボラをめざす

シボラを征服するためにスペイン人はかつてないほど大規模な遠征隊を結成。300人の兵士、宗教関係者、1000人のメキシコ人奴隷、家畜、馬、羊。隊長はフランシスコ・バスケス・デ・コロナド、30才のコンキスタドールである。黄金の甲冑を身に付け、1540年4月、マルコス修道士を伴い、シボラを目指した。

マルコス修道士が見たという都市につうと、そこにはズニ族が待ち受けていた。短く激しい戦いの末、ズニ族を制圧したが、金も銀も見つからなかった。煉瓦造りの街並みが太陽に反射して黄金のように見えただけだった。コロナドは激怒し、マルコスをメキシコシティに送り返した。

質問)どうしてシボラが黄金でできているとスペイン人は考えたのか?

コロナド キビラの噂を聞く

コロナドはがっかりしたもの、探検隊を派遣して、財宝を探させた。Garcia Lopes de Cardenas はグランド・キャニオンを発見。他のグループは現在のニューメキシコのリオグランデの近くにあるTiguexを探検。その地に住むティワ(Tigua)族はスペイン人に対して友好的だったため、コロナドは兵をその地に移す。
Tiguex滞在中、スペイン人はずっと東からきたTurk人に出会い、黄金都市Quiviraの話を聞く。Ciboraのこともあり、多くのスペイン人は信じなかったが、コロナドは賭けることにした。しかし冬がきて、食料などが乏しくなると、コロナドはティワ族と対立。スペイン人は多くのティワ族を殺害する。

質問)Turk人とは誰か。どうして彼の話にコロナドは興味を持ったのか。

コロナド テキサスを旅する

1541年コロナドはTurk族をガイドにQuiviraを探しに行く。探検隊はテキサス州北部の平原、パンハンドル、リャノ・エスタカードを通過。バッファローを目撃。バッファローを狩る平原のインディアンに出会う。東進するとCaprock崖線を過ぎ、探検隊はPalo Duro Canyon渓谷を発見する。渓谷を北上して現在のカンザス州 Wichitaに到着した。ところがそこにも宝はなかった。怒ったコロナドがTurk人に問いただすと、探検隊に村から出て行ってもらいたいティワ族に頼まれて嘘をついたことを告白。コロナドはTurk人を殺害。
1542年、コロナドはメキシコシティに帰還。金は見つからなかったので探検は失敗とみなされた。

質問) コロナドがテキサス州で見た動物と地理的な地形は?

モソコソ、テキサス東部を探検

コロナドがシボラについた頃、1539年エルナンド・デ・ソトが600名の兵士とともに、フロリダに上陸。2年間、現在のアメリカ南東部を探検した。1542年、ソトは熱病で死亡。ルイ・ド・モスコソ・アルバラドが指揮をとった。その後、モスコソ探検と呼ばれる。テキサス東部で多くのCaddo族に出会う。徒歩でのメキシコ帰還を断念し、船を作り、ミシシッピ川を下り成功。1543年に300人はメキシコに戻った。
メキシコに帰還後、モスコソの報告はコロナドと似ていた。テキサスは地理的に多様な地形であること。この時、のちに「黒い金」と呼ばれる石油を見つけるがその時は価値がわからず、この探検も失敗とみなされた。

質問)モスコソの報告の後、スペイン人の役人たちは、テキサスにもっと探検隊を送りたいと思ったか?



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