2016年10月26日水曜日

6−3 スペイン人 テキサスに再び定住

スペイン人 テキサスに戻る

要点

  1. フランスからの脅威を感じたスペインは、1700年代はじめにテキサス東部に再び定住する。
  2. スペイン人はいくつかの伝道所と砦を建造、この地方で市民が最初に定住したのは今のサン・アントニオだった。

重要な用語

フランシスコ・イダルゴ (Francicisco Hidalgo) 神父 テキサス東部での布教を熱望
ルイ・ジュシュロー・ド・サン・ドニ(Louis Juchereau de St. Denis)フランス人探検家
ドミンゴ・ラモン(Domingo Ramon) スペイン人 テキサス東部探検隊の隊長
アントニオ・マルジル(Antonio Margil)数多くの伝道所をテキサスに作った神父
マルティン・デ・アラルコン(Martin de Alarcon) サンアントニオを設立した文官
エル・カミノ・レアル(El Camino Real)メキシコシティとテキサス東部を結ぶ道

時代背景

フランシスコ・イダルゴは、辛抱強い神父であった。15歳でフランシスコ派になって以来、宣教師になってカトリックの教えを広げることを夢見ていた。ニュースペインに到着すると、彼はテキサスの話をあちこちで聞いた。テキサスのインディアンにカトリックを教えたいという意思は固くなる。計画は遅れに遅れるがいつかその日が来ると彼は信じていた。

使節団、ふたたびテキサス東部へ

サン・フランシスコ・ド・ロス・テハスの失敗後、スペインはテキサス東部を20年以上も放置した。宣教師たちの中にはその方針に不満を抱く者がいた。その一人が、フランシスコ・イダルゴ神父である。彼はそれまで、フランシスコ・ド・ロス・テハスに師事していたのである。イダルゴ神父は、リオ・グランデ沿いにSanJuan Bautista 伝道所を設立する手助けをした。でも、彼はそこでは満足できなかった。彼は、テキサス東部に行って、そこに暮らすアメリカン インディアンのために勤めかったのである。彼は、スペインの植民地政府に何度も、テハスの伝道所の再建をさせて欲しいと頼んだが、その願いはかなえられなかった。

諦められないイダルゴ神父は、他に助けてくれる人はないものかと手当たり次第にあたった。そして、ルイジアナのフランスの総督(governor)に、東部テキサスに伝道所を設立する手助けをしてもらえないかと依頼。フランスに手紙を出すなどあまりに無謀な行いんだった。なぜならこれまで見てきたように、フランスとスペインは長年の敵同士なのだから。

ルイジアナのフランス人は、メキシコにあるスペイン領と交易する機会をずっと狙っていた。しかし、スペインはそれを許してこなかった。イダルゴからの手紙を受け取ったルイジアナのフランス人総督はこれをチャンスと見た。そして1713年、探検家ルイ・ジュシュロー・ド・サン・ドニをテキサスに送った。サン・ドニの任務は、イダルゴ神父を見つけること、そして、できればスペイン人とコンタクトを取り、今後の交易につなげることであった。

サン・ドニはまず、北に進んだ。1713年、彼はレッド・リバーの近くに交易所(trading post)を設立、それはのちに ルイジアナのNatchitochesという町に発展した。その後、サン・ドニは南西に進みテキサスに入り、ついには、イダルゴ神父が暮らすサン・ホワン・バティスタ伝道所のそばの砦にたどり着く。

スペイン領内のフランス人ということで、サン・ドニは逮捕された。しかし、砦の司令官ディエゴ・ラモンは彼を大事に扱った。フランス人の一行は伝道所内での生活を満喫して、サン・ドニは司令官の娘と交際するまでになった。ラモン司令官は、サン・ドニをメキシコシティへ送り、総督に合わせた。

サン・ドニが総督に伝えた情報から、スペインはフランスがテキサスに進出をしようとしていると確信。この地域の領有権を守る為、スペイン人はテキサス東部に再び伝道所を設立することを決定。フランスの活動を監視する為に、伝道所には兵士も駐留した。伝道所設立にはイダルゴ神父も選ばれた。

新しい伝道所設立のための探検隊を率いたのは、サン・ホワン・バティスタの息子、ドミンゴ・ラモン(Domingo Ramon)だった。サン・ドニはフランス人だったが、探検のガイドとして雇われた。探検隊には、スペイン人聖職者、兵隊、市民が同行した。妻を連れていく兵士もいた。彼女たちはテキサスに入った最初のスペイン人女性だろう。必要な物資の他に、スペイン人はこの地に住むテハス族への贈り物を持って行った。

1716年6月下旬、一行はテキサス東部に到着し、テハス族に温かく迎えられた。その時のことを一人の神父がこのように書き留めている。

「朝の8時頃34人のインディアンが到着した。我々は挨拶をして抱擁したかった。喜びで胸がいっぱいだった。我々はチョコレートを差し出した。我々が望んでやまない目的が達成できると前途は明るかった」

スペイン人は、もともと伝道所があった場所に、Nuestro Padre San Francisco de los Tejas という伝道所を設立。イダルゴ神父が責任者となった。

イダルゴ神父が伝道所に落ち着いた後は、アントニオ・マーギル(Antonio Margil)神父が開拓を続けた。サン・ドニとテハス族に導かれたマーギル隊はテキサス中にどんどん伝道所 を設立した。ラモン隊長はナチェス川沿いに砦を作るが、すべての伝道所を守ることは困難だった。

テハス族はスペイン人を歓迎はしたものの、キリスト教に関心を持ったものはほとんどいなかった。しかし、スペイン人は布教を続け、この地にスペイン文化を伝え続けた。しかし、それは長くは続かなかった。

(質問)スペインはどのようにしてテキサス東部を再び支配するようになったのか?

(P121の地図)スペイン支配下のテキサス 
1600年代、1700年代、スペインはテキサス内に伝道所や砦などを設立した。
(質問)現在のテキサスのどの辺りに、スペイン人の居留地が多く集まっていたか。

サンアントニオ

スペイン人は何が何でもテキサス東部に定住すると決意していた。前回の失敗の原因は、テキサス東部がメキシコから離れすぎていたことだった。最も近い開拓地から500マイルも離れていた。道は厳しく、途中インディアンの襲撃もあった。そのため、リオグランデとリオグランデ川の間にひとつの伝道所を作ることにした。それがサンアントニオである。
1718年、テキサスの行政官、マーティン・デ・アラルコンが、入植者をつれて、San Antonio de Valeroという伝道所を設立。木の枝と泥とワラで出来たら質素な建物だった。一行は、1マイル先にアントニオ・デ・ベハール(San Antonio de Bexah)という砦をつくった。

サンアントニオ川流域は定住に適していた。冬の気候は温暖で、夏は暑くても湿度が高くなかった。木綿が植えられるようになり「ニュースペインの中で最も美しい地域」とも評された。

それから数年かけてサンアントニオ川流域にはいくつもの伝道所が建てられた。
1720年にはAntonio Margil de JesusがSan Jose y San Miguel de aguayo を建てた。伝道所内にはインディアンもくらし、教会の建物も立派になって行った。周辺では砂糖の栽培も始まった。放牧も行われるようになった。

スペイン政府は僧侶と兵士だけではなく一般人の移住を望んだが、なかなか誰も行こうとはしなかった。1731年 カナリア諸島に住む15家族を募って移住させた。サンアントニオの砦があったサンアントニオ・デ・ベハールにはテキサス初めての民間政府ができ、ベハール、とか、サンアントニオと呼ばれた。

サンアントニオは、El Camino Real(王の道)と呼ばれるメキシコシティーからテキサス東部に続く長い道の中継点となった。サンアントニオに定住する人たちは増えていった。

(質問)どうして、サンアントニオが開拓されたのか。





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