2018年6月18日月曜日

15-1 テキサス併合 The Annexation of Texas P314

要点
アメリカ合衆国との併合は、奴隷問題で意見が分かれた。
テキサスは1845年、アメリカ合衆国の一州になった。

重要単語
manifest destiny  マニフェスト・デスティニー 明白な使命
Jane McManus Cazneau
political parties 政党
joint resolution 共同声明
Convention of 1845  1845年の集会
Texas Admission Act テキサス州昇格法

時代背景
アメリカのジョン・タイラー大統領が就任したのは1841年、その数年後に国会はテキサス併合を否決。それ以来、イギリスがテキサスへの影響力を強めていた。タイラー大統領は、イギリスが北アメリカに拠点を作るのではと心配した。テキサス併合を再考する時期だ。

テキサス併合条約 The Treaty to Annex Texas

アメリカ合衆国への併合はテキサス国内でいつもホットな話題だった。ヒューストンは夢を諦めなかった。テキサス人もそれを望んでいた。しばらくするとアメリカ合衆国内からもテキサス併合に賛同する人たちが現れ始めた。

テキサス併合のネックとなったのが、奴隷問題だった。南部州は奴隷州を増やしたいため併合には賛成した。

ジョン・タイラー大統領は南部州出身だったので、併合に賛成だった。1843年、彼はテキサスに担当官を送り、交渉を再開した。併合の第一歩として、テキサスを領土にする交渉だった。テキサスの借金を帳消しにする代わりにテキサスはすべての公地を合衆国政府に差し出すというものだった。

タイラー大統領の協定は国会からも国民からも大反対にあった。ニューヨークでは3000人規模のデモが起き、1844年6月に否決された。

国会で否決された後も、併合に賛成の国民はいた。彼らは、アメリカ合衆国が西に拡大していくことに熱心だった。西をチャンスの土地とみなし、農業や貿易が経済成長をもたらすと考えていた。アメリカ合衆国は太平洋まで拡大すべきで、テキサスもその一部という考えだった。この信念が、マニフェスト・デスティニー(明白な運命 manifest destiny)である。

合衆国銃で、新聞はテキサスを州にすることに賛成していた。例えばコラムニストのJane McManus Cazneauの書いた記事で北部の人々の考えも変わっていった。

リーディングチェック
あなたは併合に賛成ですか? 自分の意見の説明をしなさい。

併合決議 The Annexation Resolution

テキサス併合とマニフェスト・デスティニーの問題は1844年の大統領選の争点だった。2つの政党(Political parties)が選挙を争った。

民主党( the Democratic Party)は、テネシー州のジェームス・ポークJames K. Polkを大統領に指名。Polkは、テキサス併合に賛成していた。彼のライバルは、ウィッグ党(Whig party)、ケンタッキー州出身のHenry Clay。最初、Clayは併合に反対だった。メキシコを敵に回すことになるなるからだ。ところが南部州の票も欲しかった彼は、曖昧なメッセージを送るようになる。その結果、ポークPolkが勝利した。

タイラー大統領も国民も、ポーク大統領の勝利は、テキサス併合への兆候とみた。

タイラー大統領は国会に共同決議 (joint resolution)を通過させるように要求。一般の協定は上院の2/3の承認が必要だが、共同決議は過半数で通過させることができるからだ。

1845年2月、タイラー大統領の任期が切れる3日前に、国会はテキサスを併合する共同決議を採択した。

リーディングチェック
ポークの選挙が、どのようにテキサス併合に影響したか。

テキサス、アメリカ合衆国に入る Texas Enters the United States

共同決議は、それまでの併合協定よりも、テキサスにとって好条件だった。
領土(territory)ではなく、1つの州としてアメリカに加わることのができた。公地も維持できた。しかし、公地の一部や軍備は借金返済のためにアメリカ合衆国に渡さねばならなかった。

1845年 テキサス大統領のアンソンジョーンズは、アメリカ合衆国からの併合の申し出を話し合うための集会を開いた。これを1845年の集会(the Convention of 1845)という。

アメリカの州になるためには、テキサス国民が正式に併合を認める必要があった。テキサス人は独立国であることに誇りを持っていたが併合にも意義を見出していた。テキサス人のほとんどがアメリカ合衆国の出身で、商業的つながりがアメリカと強く、州政府はテキサスを守ってくれると思ったからである。10月13日、テキサスは併合を4,254対267で可決した。同時に新しい州憲法を承認。1845年12月29日ポーク大統領はテキサス州昇格法(Texas Admission Act)に署名した。テキサスはアメリカ合衆国の28番目の州になた。

リーディングチェック
ほとんどのテキサス人が併合に賛成した理由は?


第15章 テキサス、アメリカ合衆国に加わる (1845-1860)

14−3 共和国の最後の数年 The last years of the Republic P303

要点

  1. 1844年、アンソン・ジョンズAnson Jones がテキサス共和国大統領に選ばれる。
  2. ジョーンズ時代、テキサス人はアメリカとの併合をより一層求めるようになる。

時代背景
1844年12でヒューストンの演説
テキサス・メキシコの戦争は回避した。 1842年以来、メキシコからの侵略はない。囚人は一人を除いて皆帰還した。経済は回復している。ヒューストンは次期大統領にも彼の方針を継承してもらいたいと思っていた。

アンソン・ジョンズ大統領 President Anson Jones


次期大統領を誰にするかという議論は白熱した。1844年の選挙で、テキサス共和国は分裂した。新聞は両候補の激しい批判を書きたてた。エドワード・バールソン副大統領 Vice president Edward Burleson とブラゾリア出身の医師でサンジャシントの英雄でもあるアンソン・ジョーンズAnson Jones の戦いだった。アンソン・ジョーンズはヒューストン政権下で国務大臣を務めていた。

アンソン・ジョーンズはヒューストンの政策を支持しており、バールソンはヒューストンの政策に反対だったのでラマールの支持者から支持された。

結果は、アンソンジョーンズの圧勝。多くの国民がラマールの政策を批判していたので、ラマールに支持されたことがバールソンの足かせとなった。副大統領はKenneth Andersonが選ばれた。

アンソンジョーンズ大統領は共和国の経済問題に取り組んだ。共和国は建国当時から赤字で、ラマール時代に赤字が膨らんだ。ヒューストンが立て直しを試みたが1942ねんと43年の綿花の不作で経済は復興しなかった。

ジョーンスは、国家支出を削減。テキサスのアメリカン・インディアンとの和平を試みた。アメリカ合衆国との併合が現実味を帯びてくると通貨の価値が上がってきた。1845年までには、アメリカ合衆国との通貨と同じくらいの価値となり、豊作年には貿易高も増え、テキサスの景気は良くなっていった。

テキサス人、併合について議論する Texans debate Annexation

アンソン・ジョーンズ大統領はアメリカ合衆国との併合にも積極的だった。1936年の建国時、テキサス人も併合に賛成したが、ヒューストン政権は賛成でも、ラマール政権は反対だった。

国務長官として、アンソン・ジョーンズはヒューストン政権時代に併合などのテキサスの外交を緻密に計画していた。1843年の新聞では、「大多数の国民は併合に賛成」と書かれた。

就任直後の数ヶ月は、ジョーンズは併合については公言しなかった。テキサス人ははっきりした答えをもとめもどかしく思った。どんどん多くの国民が併合を求めるようになった。しかし、ジョーンズは、併合か独立かの選択肢を持っておくべきだと考えていた。それは、メキシコから独立の承認を得て、メキシコと和平関係を結べるかどうかにかかっていた。

メキシコと交渉を望むテキサス人はほとんどおらず「メキシコの目的は嘘をつき我々を欺くこと。政治家はだませても、テキサス人はだませない」と1845年の新聞には書かれてあった。そのうちに、メキシコがテキサスの独立を認めそうだという話がはるようになってきた。テキサスは独立を保つか、併合をめざすか、再び議論し始めた。

リーディングチェック
ジョーンズ大統領が、併合の決断を遅らせたのはなぜか。













2018年6月17日日曜日

14-2 メキシコとの紛争 (Conflict with Mexco) P297

要点
ラマール大統領は、サンタフェをテキサスに加えたいと望む
メキシコ軍はテキサスを時々襲撃した。
1845年、メキシコはテキサス共和国を承認した。

時代背景
サンタ・アナはワシントンDCに囚人とした送られ、アンドリュー・ジャクソン大統領に面会した後、メキシコに帰る。1839年には国政に復帰、テキサス奪回を決意する。

サンタフェ遠征

当時、テキサスとメキシコの国境は確定していなかった。1836年の共和国国会では国境をリオグランデ川と確定したが、そうするお、メキシコの国土は半減する。ニューメキシコに住む人々はメキシコに忠誠を誓っていた。

ラマール大統領は任期中、リオグランデ川東部の人々が、自分の土地がテキサス共和国のものであると認めるように、サンタフェの住民を3人選び、周りの人々を説得させる。

ラマールはテキサス・サンタフェ間の貿易路を整備。
1841年6月、サンタフェ探検を実行。320人、20万ドルの輸出品とJose Antonio Navarroなどの有名人をHugh Mcleed率いるテキサス軍が護衛した。

この大遠征は開始直後からトラブルに見舞われた。アメリカン・インディアンの襲撃、食糧不足、疲れ果ててニューメキシコに着いた先にはメキシコ軍が待ち受けていた。

1841年10月、テキサス人は逮捕され、歩いて1200マイル離れたメキシコシティへ連れて行かれた。「歩けなくてフラフラになった男をメキシコ兵が射殺するので、こんな遠くまで歩くしかなかった」と生き残りの一人が証言している。テキサス人は翌年の4月まで投獄される。

唯一のメキシコ系テキサス人(テハノス)のホセ・アントにオ・ナバロは、テキサス革命でテキサス側についたことで、裏切者として死刑宣告。他のテキサス人よりも長い間投獄される。しかし、その後、脱獄し、テキサスに逃げ戻り、1845年、テキサス併合集会にギリギリ間に合い、唯一のテハノ代表として署名する。

ラマールのサンタフェ遠征は失敗だった。
60人以上のテキサス人が命を落とし、大金を失い、メキシコがまたテキサスに関心を持つようになり、テキサスとメキシコの紛争が再燃した。

リーディングチェック
ラマールがメキシコ遠征をした理由は?そして失敗した理由は?

テキサス海軍 The Texas Navy

1840年 メキシコのユカタン州がメキシコ政府に対して反乱。ラマールはこれを好機と見る。ムーア提督Commodor Edwin W. Mooreの海軍を送り反乱を支援。ひと月8000ドルを得る。
ヒューストン2期目が1841年から始まると、ヒューストンは海軍を戻し、財政支出を引き締め、軍艦をガルベストンに戻して、売却することを命令。ガルベストンの住民は売却に反対。軍艦は売られることはなかったが、可動することもなくなった。

古文書戦争 The Archives War

ラマールの行動に起こったメキシコ政府は1842年3月、Rafael Vasques将軍率いる軍隊で三・アントニオを攻撃。同年9月には、Adrian Woll将軍と1400人の兵士がサンアントニオを占領。10人の子供を持つ住民Mary Maverickが当時の様子を書き記す。

砲弾の音ので目を覚ました。霧が晴れると囲まれていた。

Woll将軍は数人の捕虜をとってサンアントニオの奥へ進軍。Jack Coffee Hays が率いる自警団がWollとSalad Creekで会戦。メキシコまで押し返す。Haysはいまでも、勇気、能力、忠誠心でテキサスレンジャーの鑑(かがみ)として認められている。彼はその後、米墨戦争でも大活躍する。

ヒュースオンは1842年12月、テキサスレンジャーズに命じ、古文書をワシントン・オン・ザ・ブラゾスに移すことを指示。オースティンの住民は、自分の都市が首都でなくなることを恐れ反対。Angelina Eberlyらは、古文書を馬車に移そうとしている作業員に発砲。この紛争は古文書戦争と呼ばれ、その後、古文書はオースティンに残る。

ミエル遠征 The Mier Expedition


1842年11月、ヒューストンはアレクサンダー・サマヴェル将軍 General Alexander Somervellをリオ・グランデに、Woll将軍に捕まった人質を取り戻しに行かせる。

サマヴェルがリオグランデ川についた時、彼は任務遂行に必要な十分な物資や人員がないことに気づいた。彼は300人の兵士に帰還を命じたが、フィッシャー大佐Colonel William S Fisherと兵士たちはその命令に背き、メキシコを侵略。Mierという小さな街にむかった。これはミエル遠征と言われる。

12月23日、テキサス軍は、ミエールに入り、物資を要求。街の人は翌日提供することに合意した。翌日物資が供給されないと、テキサス人は街を襲撃。そこには、900人のメキシコ兵が待ち構えていた。戦いが1日続いたあと、100人のメキシコ兵と30人のテキサス兵が死傷した。物資不足で、テキサス側は降参した。

捕らえられたテキサス兵はメキシコシティまで行進させられた。200人は途中で脱走したが、食料もなく、山々を歩き、ほとんどは死ぬか、再び捕らえられた。再び指導者隣っていたサンタ・アナは10人に一人を射殺することを命令。176名の囚人から1割が豆で選ばれた。生き残りの証言によると、白い豆をひいたら放免。黒い豆は死。黒い豆を挽いたものは目隠しをして銃殺される。18人が脱走。20人が獄死。他は放免。1844年9月にはミエール遠征の囚人を全員釈放した。

ミエル遠征はメキシコとテキサス共和国の最後の戦い。イギリスとフランスの努力でメキシコとテキサスの関係は少しずつ回復した。ヨーロッパ諸国がテキサスを支援するのには理由があった。ヨーロッパ諸国はテキサスがライバルのアメリカ合衆国の一州になるよりは、独立していて欲しかったのだ。そのため、ヨーロッパ諸国はテキサス併合を必死になって阻止した。もしも、メキシコがテキサスの独立を認めれば、テキサスがアメリカへの併合を求めなくなると考えたのだ。

1845年春、イギリスとフランスの外交圧力で、メキシコはついにテキサスの独立を認める。その見返りに、テキサスもアメリカへの併合はしないことになった。

メキシコの指導者たちも提案の内容に同意。ヨーロッパ同様メキシコも、テキサスの併合を阻止したかったからだ。メキシコはアメリカ合衆国と国境を接するのは避けたかった。しかに、テキサスの独立を認めた頃には時すでに遅し。テキサス住民はアメリカ併合を心に決めていた。

リーディングチェック
テキサスがどの国にも併合しないことは、メキシコにとってどんな意味があったのか。







14-1 テキサスの国家承認 (Foreign Recognition of Texas) P294

要点

  1. テキサス共和国はメキシコとの戦争の脅威を減らすために外国からの国家承認をめざす。
  2. 多くのテキサス人はアメリカ合衆国との併合を望む。
  3. 数カ国がテキサスの独立を認める。
時代背景
テキサスの旗艦船インデペンデンス号がニューオリンズから帰港中トラブルに遭った。メキシコの戦艦と会い、戦いになり、外交官のWilliam H WHartonとすべての船員は捕らえらてしまった。メキシコが独立を認めるまで、テキサスに安全がこないことは明らかだった。

テキサス国家承認を追求する (The Quest for Texas Statehood)

テキサスとメキシコの関係が、テキサス共和国の外交(foreign relation)の要となる。メキシコはテキサスの独立を認めず、メキシコにとってテキサスは反乱中の州に過ぎなかった。テキサスはこの問題を解決しないと、前述のインデペンデンス号のようなトラブルが起きる。もし、外国諸国がテキサスを国として認めればメキシコも認めざるを得なくなり、戦争の危険も減るだろう。最も大切なことはアメリカ合衆国の外交承認(deplomatic recognition)を得ること。

ヒューストンはそれ以上のものを望んだ。テキサスがアメリカ合衆国の一つの州になることをめざした。それはヒューストンの選挙公約でもあった。しかし、アメリカはテキサスを併合することには消極的だった。共和国の存在を認めることすらためらった。アンドリュージャクソン大統領は国会で、テキサスの独立を認めたらメキシコが起こって戦争になる」と警告した。

アメリカ合衆国がテキサスを併合したがらない理由はいくつかあった。
メキシコを怒らせると戦争になるかもしれない。アメリカの北部臭は、奴隷州を増やすことに激しく反対した。

当時、ワシントンDCに送られていたワートンWilliam H Whartonは、ヒューストン大統領に次のような報告をしている。
「独立は認められるだろう、でも、併合される望みはあまりない。併合についての激しい議論がすでに始まっている。」

ワシントンで併合の議論がされているころ、ジャクソン大統領はHenry Morfitをテキサスに派遣してテキサス共和国の状況を調査した。モーフィットの報告は、国会承認すべきではない、というものだった。理由は人口が少なすぎ、借金が多すぎ、承認すればメキシコを敵に回すことになるから、というもの。テキサス共和国が存続するかどうかすらわからなかった。

外国からの国家承認

ワートンは正しかった。モーフィットの報告に反し、アメリカ合衆国は公的にテキサスの独立を認めた。1837年、アンドリュー・ジャクソン大統領は、任期の最後に、テキサス担当相を任命。テキサスも代表者をワシントンに送る。

ワートンの予想通り、合衆国はテキサス併合には反対。これにはテキサス人は皆失望した。しかし、テキサスの指導者達は正式な外交ルートが合衆国と結べれば、貿易や借金がしやすくなり、テキサスの経済が良くなるり、移民が増える、と考えた。

ヒューストンは、テキサスの立場を強固にするために、他の外国とも国交を結ぶことに尽力した。
1837年、国家樹立のためJames Pinkney Hendersonをヨーロッパに送った。
1839年、フランスがテキサスを承認。英国、オランダも続く。
ラマール大統領は金と脅しでメキシコと交渉をしたが、メキシコはテキサスの国家承認を拒否し続けた。

リーディングチェック 
テキサスを独立国と認めたのはどの国か?







第14章 テキサス 外国からの圧力を受ける(1836年ー1845年)

13-3 当時のテキサスの生活 (Texas Life) P286

要点


  1. テキサス共和国のほとんどの人々は農場か牧場に住んでいたが、街に住んでいる人もいた。
  2. 狩り、文学、芸術がレジャーだった。
  3. 協会や学校が社交センターだった。


酪農業 町、そして、移動手段 (Farming, Towns, and Transportation)

テキサスの農場主は大農場主もいたが、ほとんどが小規模で奴隷はほとんどおらずいても数人で、悔恨、家づくり、植え付け、牧場作りなどは自分で行い、自給自足の生活をしていた。商品咲くものとして、とうもろこし、綿花、ライ麦、大麦を作っては売ることもあった。

牧場主は、動物を育てて、自分で使ったり、他のテキサス人に売ったりした。食肉や獣皮(hides)や他の物品を売った。Taylor Whiteといったような大牧場主は、ニューオリンズに家畜を売りに行くこともあった。

町も発展した。ヒューストン、ガルベストン、ダラスなどでは、土地の投機家(Land speculators)が大きな土地をかって、小分けにして売って儲けを得ていた。しかし、買い手が払えないと損をした。テキサス人は現金を使わない習慣があったので、簡単ではなかった。

共和国時代の移動は道路が悪く、天候が悪い時はもっと大変だった。川が使われた。
1840年までにブラゾス側、コロラド川、トリニティ川で蒸気船が行き来し、綿花や農産物を移動した。しかし、蒸気船に向いた川はテキサスにはほとんどなかった。

交通手段が整備されていないことが、テキサスの商業発達を遅らせた。

レジャーと文学と芸術 (Leisure, Literature, and Art)

テキサス人の生活は仕事だけではなかった。様々なレジャーがあった。仕事のような楽しみもあった。例えば、新規開拓者のための家づくり、丸太切りコンテスト、狩り、釣りなど。
またコンサートや競馬、演劇などの芸術も楽しみ、ラマールは詩人で、スランスの画家Theodore GentilsはテキサスにHenri Castroと来た。

教会と学校 

テキサス革命後、ローマカトリック教会以外の宗教も認められることになった。プロテスタント派(Protestant denominations) の教会が数多く作られた。その中でもメソジスト教会(Methodist Charch)が最大宗派。次にバプティスト教会、長老派(Prebyterians)教会、聖公会(Episcopalians)が続いた。ユダヤ教のシナゴーグも作られた。

教会などは、宗教や社交センターとしての役割があった。日曜学校の他に、教会は様々な催しを開いた。国境付近では、馬に乗った巡回牧師(Circuit riders)が奉仕した。

教会は学校も経営した。Rutersville Collegeはメソジスト教会によって1480年に設立された。現存する中で最も古いBaylor Collegeはバプティスト教会によって1845年に設立された。

公立学校があったのはヒューストンだけ。しかも1840年代に開校したり閉鎖したりを繰り返した。他の地域には、私立のアカデミー(academy)を建て、高校レベルの教育を行った。