2018年6月15日金曜日

13-1 テキサス人の生活 (P278)

要点
  1. 移民により、テキサス共和国の人口激増
  2. テキサス内のアフリカ系アメリカ人はほとんどが奴隷。しかし自由アフリカ人も苦労
  3. テハノやアメリカン・インディアンは、差別を受ける。

人口増加(A Growing Population)

革命前に焼き払われた土地に人々が戻ってきた。
1836年に52700人(うち22700人はインディアンかテハノ)だったのが、10年間で10万人増加した。

最も多かったのが東部のアメリカ合衆国から土地と機会を求めてやってきた入植者だった。
南部からの移住者はテキサス東部か海岸部や、さらに内陸部のレッドリバーの方に移住した。

アフリカ系アメリカ人 (African American)

南部からの移住者は、奴隷を連れてきた。
1836年憲法では奴隷は合法だった。1836年には5000人だった奴隷の数は、1845年には30000人に増えた。

奴隷の生活は過酷だった。綿畑での長時間労働、結婚も財産を所有することも不可能だった。

自由アフリカ系アメリカン人もテキサス革命後は差別を受けた。1836年憲法では、自由人であってもテキサスに住むには共和国の許可が必要になった。

1840年、議会は自由アフリカ系アメリカ人のテキサス入国を禁止。すでに住んでいる人も2年以内に出て行くように命令

テキサス革命の時に戦果をあげたGreenbury Loganも退去の危機に。人々が請願(petition)をして、1840年にAshworthが制定され、テキサス独立前からテキサスにいた自由アフリカ人は居住が認められることになった。

共和国内のテハノス (Tejanos in the Republic)

共和国内には何千人ものテハノス(ヒスパニック系、メキシコ系 テキサス人)が住んでいた。ほとんどが、サンアントニオやグアダループ側の南側に住んでいた。テハノスも特にアメリカ合衆国からの移住者から敵意を持たれていた。 アメリカ合衆国からの移住者はテハノスをメキシコ人とみなしていて、メキシコは敵だと思っていたからだ。テキサス革命に協力したテハノスですら差別を受け、Juan Seguinの元に似て撃た。

1838年、ナコドチェスでVicente Gordovaが率いるテハノスがインディアンと共に蜂起 これをコルドヴァ反乱(Cordova Rebellion)という。彼らはアングロ系住民を追い出そうとするが、ヒューストンがこの反乱を抑えた。コルドヴァはメキシコに逃走。逮捕された33人は反逆者として裁かれる。その後釈放されるも、アングロ系テキサス人はテハノスを迫害。100家族以上を追い出す。

テハノスでも権力の座を維持したJose Antonio Nabarroなどは、テハノスの権利擁護に尽力。テハノスたちは差別を受けながらも、キリスト教、伝統的料理、メキシコの祝日といった自分たちの文化を守り続けた。

リーディングチェック 
テハノスが共和国の生活に失望した理由は?

テキサスのインディアン

この時期、テキサス国内に住んでいたテキサスのインディアンの人数はわからない。定住していないし、東部から追われてきた部族が住んでいたから。

アフリカ系アメリカ人や、テハノス同様、インディアンたちも差別された。

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