2018年6月13日水曜日

10-3 集会と陳情 (Conventions and Petitions)

要点

  1. テキサス人はメキシコの新政府が、テキサスを改善してくれることを望む
  2. 1832年と1833年の集会では、移民政策の改正とテキサスが州として認められることを要求
  3. スティーブン・オースティンは、1833年の集会の要求を伝えに行ったメキシコで逮捕される。


ブスタマンテとサンタアナの内戦は続き、テキサスの人々はサンタアナを支持、オースティンはサンタアナを支持することを表明するためにサンタアナの部下のホセ・アントニオ・メヒアに会い、テキサスのサンタアナ支持を確約した。

The Convention of 1832(P211) 1832年の集会 


1832年、テキサス人が期待したサンタアナが勝 利。1833年に大統領になる。 

テキサス人、1824年憲法の復活を約束したサンタアナの勝利を喜 んだ。1830年6月4 日法が施行されてからメキシコ中央政府の支配に不満だったからだ。

テキサスの16 の植民地は1832年10月1日にサンフェリ ペで集会(Convention)を開く。テハノス(ヒスパニック系テキサス人)の植民地、サンアントニオはリーダーを送らなかった。代表団 (delegates)は改革(reforms)について 話し合った。 メキシコ政府に要求する決議案は以 下の通り 
1)アメリカからの移民許可。 
2)テキサスはコアウイラの一部で はなくメキシコの1州だと認める。 
3)3年間、関税撤廃 
4)公教育のための土地提供

この決議を州政府に届ける役 目にウィリアム H ワートン(William H. Wharton)を選ぶが、サンアントニ オの不参加によりこの決議は認められなかった。 7. ... (読解チェック) テキサス人は1824年憲法がどうなることを望んだ か。1832年の改正案では何を要求し たか。 

The Convention of 1833(P212) 1833年の集会


 オースティンは、改革を進めるために はすべてのテキサス人が協力しなけれ ばいけないと気づき、サンアントニオ のテハノス(メキシコ系移民)や各入植地のリーダーたちと話し合いを進める。待ちきれないテキサス人は再び集会を開いた。 1833年4月1日の会議で、ウィリ アム・ワートンが議長に選ばれ、ナコ ドチェスに来たばかりの元アメリカ議会議員でテネシー知事のサム・ヒュー ストンも参加し、行動を求めた。

オースティンは自分のいない間に会議 が開かれたことに立腹し手紙を書いた。 結局、1932年と似た決議が採択された。オースティンがメキシコに決議を提案するために1933年4月22日に メキシコシティに向かった。 

Austin Is Arrested (P213) オースティン逮捕される 

オースティンは3ヶ月かけてメキシコシティに到着するも、問題が多かった。サン タアナ将軍はおらず、副大統領にしか 会えなかったのだ。メキシコ政府にも問題が山積していた。 コレラが蔓延していて、何千人もが罹患しし死んでいった。

9月、オースティンはまだメキシコ政 府から返事がもらえず、ゴメス副大統 領に承認を待たずテキサスは州政府に なると伝える。副大統領は立腹。 

翌月、サンタアナがメキシコシティに 帰還し、1833年決議のほとんどを承認。アメリカ人の移住を認め、関税を 下げるも、テキサスがコアウイラから 離れた別政府になることは認めず。

オースティンは1833年12月10日にメキシコシティを離れた。しかし、途中のコアウイラで、オーステ ィンの手紙を読んで、オースティンがメキシコ政府に刃向かったと勘違いしたメキシコ政府の役人に逮捕されてしまう。  

オースティンはメキシコシティに連れ戻され、裁判もなく投獄され、1834年12月25日までの1年 間獄中で過ごす。その後もテキサスに戻ることを許されなかった。テキサスの人々はオースティンの身を心配した。


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