2018年6月13日水曜日

8−3 オースティンの入植地

要点

  1. 入植の最初の数年、オースティンの入植地では、全員が逃げ出しかねないほどの問題が起きた。
  2. オールド・スリー・ハンドレッド(テキサスに最初に入植した白人系300家族)が、サン・フェリペ・デ・オースティンを中心としたオースティンの入植に協力する。
  3. 最初の入植地が成功すると、オースティンはテキサスにあと4つの入植地を作る

オースティンの入植地の初期の問題

オースティンは、Baron de Bastorpという土地の権利を発行する権限を持った人と、1823年8月に自分の入植地に戻った。ところが、多くの入植者が去った後だった。オースティンがいない間に、ひどい干ばつによる食糧不足が起き、入植者は狩りをして生き延びていた。加えて、KarankawasやTonkawasといった地元のアメリカンインディアンの襲撃もあった。

オースティンはメキシコの入植を認めたと入植者への説得を試みる。アメリカンインディアンの襲撃から守る民兵も組織した。オースティンは入植者たちからの信頼を得て、入植者が戻ってくるようになった。

ザ・オールド・スリー・ハンドレッド

1824年の秋までに、297家族と1人の独身男性が、入植地で土地を受け取った。この最初の白人入植者はオールド・スリ・ハンドレッドと呼ばれる。その多くはルイジアナ出身、農業を営み、奴隷を所有しているものもいた。1825年にオースティンの入植地に住んでいた1790人のうち、440人は奴隷となったアフリカ系アメリカ人だった。

入植者の教育レベルは比較的高かった。オースティンの厳しいルールにより、法も守った。

女性でも土地をもらった人たちがいる。フィルバスターJames Longの未亡人、Jane Longは1824年に土地を譲り受け、オールド・スリーハンドレッドの中でも最も有名な一人となった。

サン・フェリペ・デ・オースティン

植民地の首都は、サンフェリペとなった。現在、ブラゾス川のオースティン郡にある。メキシコとテキサス東部を結ぶ交通の要所にあり、絶壁の上にあったので防衛も容易で、崖の下の川から水を得られ、フェリーも停まっていた。

サン・フェリペは、オースティンの入植地の中心となり、入植地の人口は急増した。

1830年までにサンフェリペはサンアントニオに続くテキサス第2の商業地となった。

オースティンのその他の入植地

José Miguel de Arcinega、Gaspar Flores de Abrego、 José Antonio Saucedo、Erasmo Seguinなどのヒスパニック系のリーダーたちもオースティンの植民地作りに協力した。彼らの協力のおかげで、オースティンは1825年から1831年までの間に他に4つの入植地を設立。一つだけ離れたところにあり、オースティンのリトル・コロニーと呼ばれる。

リトルコロニーには、コマンチェ族の狩場に近かったので、よく襲撃を受けた。

離れていたため、リトルコロニーの発展は遅かった。オースティンも、民兵を組織したり、トンカワ族を味方につけたりして、発展のための尽力をするが、なかなか入植は増えなかった。

しかし、他の入植地は発展していった。


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