2018年6月14日木曜日

11-5 独立を勝ち取る (Independence Is Won)

要点

  1. テキサス人はメキシコ軍から逃げるため「過酷な逃走(The Runawas Scrape)をする。
  2. テキサス軍はゴリアドで降参するが、数日後、サンタアナの命令で虐殺される。
  3. テキサスはサンジャシント(San Jacinto)の戦いで、独立を勝ち取る。

過酷な逃走 (The Runaway Scrape)

1836年の協議会でサム・ヒューストンは正式な指揮官になったものの、兵も武器も弾薬も金もなかった。彼は兵を組織して訓練を始めた。

3月6日、ヒューストンは、ワシントン・オン・ザ・ブラゾスを発ち、ゴンザレスに向かった。その時、彼はまだアラモがどうなっているのか知らなかった。3月11日に、ゴンザレスに到着し、アラモの敗北の知らせを受けた。彼は、偵察隊を送り、アラモで何が起こったのか、そして、サンタアナがどこにいるのかを探った。翌日、偵察隊は生き残りのスザンナ・ディケンソンをゴンザレスに連れてきた。ヒューストンとその軍は、アラモを防衛した者たちの最期を詳細に聞いた。

テキサス人はサンタアナがゴンザレスに向かっていることも知った。当時、ヒューストンの軍は400人以下。メキシコ兵は700人以上。ヒューストンは撤退を命じた。ゴンザレスに住む市民も、メキシコ軍がこれ以上物資を得ないように、コンザレスの街を焼き払い、軍隊とともに、荷物をまとめて逃走した。

アラモの噂はテキサス中に広がっていった。身の危険を感じたテキサス人はメキシコ軍の追撃から逃れるためにアングロ系の入植者たちもアフリカ系の奴隷も、テハノス(日スマpニック系テキサス人)も、農場や家を捨てて東に逃げた。天候が悪く、大雨の洪水の中、多くが命を落としながら、「過酷な逃走」をした。

ゴリアドでファニン降伏 (Fannin’s Surrender at Goliad)

ゴンザレス付近で、テキサス人がサンタアナから逃走している頃、テキサス南部では、マタモロス(Matamoros)ですでに勝利したJose de Urrea将軍と550の小隊が、Rio Grande川を渡り、沿岸に沿って進軍していた。

サンタアナがアラモを包囲している頃、メキシコ軍のウレラ将軍はレフュジオ(Refugio)に進軍し、3月14日のレフュジオの戦いで勝利。テキサス軍は数時間防衛した者の、武器と弾薬が切れ、捕虜となった。ウレラは次の目標をJames Fannin大佐のいるゴリアドに定めた。

3月14日、ファニンはヒューストン将軍から、ヴィクトリアへ撤退するようにという命令を受け取った。ファニンはすぐには行動せず、レフュジオからの兵を待った。捕虜になってしまっていることを知らなかったのだ。ウレラはゴリアドに急ぎ、3月18日、フェニンはゴリアドでウレラと交戦。ファニンはゴリアドの砦を離れ、ヴィクトリアに向けて北東に向かった。

3月19日 テキサスの部隊は、濃霧の中、ゴリアド郊外の草原を進んでいた。少し休んで気がつくと、ウレラの軍に包囲されていた。ファニンの兵は300人。メキシコ軍は300小隊。戦うしか選択したなく、コレト・クリーク(Coleto Creek)のそばで戦った。

コレトの戦いで、草原で包囲されたテキサス軍は身を守るものもなく身動きができなかった。テキサス軍はどんどん増強していった。怪我をした上に数で勝てず、ファニンは降伏することを決意。テキサスの兵士たちはゴリアドに連れて行かれた。

捕虜たちはゴリアドで1週間過ごした。記録には「ウレラは捕虜の扱いに寛大だった」と書かれている。ウレラはサンタアナに、捕虜を殺したくないと手紙を書くが、サンタアナの返事は明確で、メキシコ政府に戦いを挑んだ者は即刻処刑、というものだった。

3月27日、メキシコ軍は、400人以上のテキサス人をゴリアド郊外で射殺。この「ゴリアドの虐殺( Goliad Massacre)から混乱の中逃げた数人を、メキシコ軍と旅をしていたFrancita Alavezが逃走を助け、のちに、ゴリアドの天使と呼ばれる。

リーディングチェック
ファニンが降参する原因となった、地理的要因とその他の出来事とは。

ヒューストン 兵の準備をする

ゴリアドのニュースを聞いたテキサス人は激怒し、テキサス軍に加わるようになった。兵士の数は1200人に増えたが、ヒューストンはメキシコ軍と戦うには、まだ人数も装備も足りないと確信し、戦いを避け続けた。サンタアナがテキサス内を進む中、ヒューストンは兵を東に進めた。

テキサス軍内の部隊のいくつかは、撤退を続けるヒューストンを批判した。

ヒューストンは批判を無視。サンタアナが、サンフェリペの基地に近づいていると聞くと、彼は兵を20マイル北のJaret Grocesのプランテーションに移し、実戦訓練をする。兵は物資弾薬を集めた。合衆国からも支援があった。オハイオ州のシンシナティの市民は大砲2台を送った。

4月12日、ヒューストンの軍隊は、グロースのプランテーションを離れ、6日後、南東のハリスバーグ(Hurrisburg)に到着した。ヒューストンの偵察隊はサンタアナと一部の軍がブラゾス川を渡り、ハリスバーグから遠くないところで野営をしていると報告。ヒューストンは決意した。「サンタアナと戦う準備をしている。テキサスを救うのは今しかない」と友人に手紙を書いた。 サンタアナとの最後の戦いの舞台が整った。(戦場の地図はP249)

サン・ジャシントの戦い

ヒューストンの軍は、ハリスバーグに到着した。そこからバッファロー・バイユーを下り、サン・ジャシント川についた。4月20日、テキサス軍は、目の前に草原が広がる高台の樫の木立で野営をした。メキシコ軍が攻めるには草原を渡らねばならない位置だ。

その夕方、サンタアナとその軍は、バッファローバイユーとサン・ジャシント川の交わるところにつき、その危険な場所で陣を敷いた。サンタアナの兵は身を守る者がないのに対し、テキサスの軍は木立に身を隠すことができた。

サンタアナは小隊を送り、テキサス軍を追い払おうとするが、テキサス軍は反撃した。テキサス軍の騎兵がメキシコの騎兵を攻撃するが追い払われた。一進一退を続ける内に、コス将軍が540以上の兵と共に到着。

テキサス軍は、1200人以上のメキシコ兵と戦うのは困難だと気付き、会議を開く。議論の末、その午後に攻撃することを決定。

ヒューストンは、900人の武装兵をあつめた。その中にはJuan Seduin やテハノスの小隊もいた。午後3時。テキサスは森から草原に出た。メキシコ兵に見られないように進んだ。メキシコ兵の多くは壁を築いたあとで、攻撃を予測せず、寝ていた。多くのメキシコ兵は銃撃と「アラモを忘れるな!」「ゴリアドを忘れるな』という怒号で目が覚めた。サン・ジャシントの戦いはたったの18分だった。多くのメキシコ兵は逃走したり、降参しようとしたが、テキサス軍は銃撃を続けた。銃撃が止んだ時、630人のメキシコ人が殺されていた。テキサス側の死者はわずか9人。ヒューストンはそのうちの一人で、足首の骨がライフルの弾で砕けた。

交戦中、サンタアナは姿を消したが、翌日、沼に隠れているのが見つかり捕虜となった。サンタアナは副官に手紙を書くと、メキシコ軍の反撃は止まった。テキサス軍はサン写真との戦いに勝っただけではなく、戦争に勝ったのだ。ヒューストンはサンタアナの処刑に反対した。

1836年のサン・ジャシントの戦いはテキサス革命は終了した。テキサスはメキシコからの独立を勝ち取り、テキサス共和国が生まれた。

リーディングチェック
サン・ジャシントの戦いの成果とはなにか。

11-5 テスト対策





0 件のコメント:

コメントを投稿