- 1836年の初め、メキシコ軍がテキサスに進軍。当時、テキサス軍はまだ十分組織されていなかった。
- テキサス軍は、サンアントニオのアラモ布教所に立てこもることにする。
- アラモの防衛軍は命を賭けて、メキシコの攻撃に耐えようと必死で戦う。
メキシコ軍 進軍 (The Mexican Army Advances)
1836年1月、サンタアナは自ら6000人の兵士を従え、サンアントニオに進軍していた。同時に、メキシコ軍の将軍José de Urrea はメキシコ湾に沿って、ゴリアドに向かって進軍していた。
テキサス軍はまだ準備ができていなかった。ウレアはすぐにマタモロスに向かっていたテキサス兵に勝利、捕虜とする。
マタモロスに向かっていなかった残りのテキサス軍はばらばらで、James Neilli 大佐(colonel)は、100部隊(troop)をサンアントニオに持つのみ。James Fannin大佐はゴリアド(Goliad)に400人の兵士を持っているだけだった。
サム・ヒューストンは、テキサス軍がまだ形をなしていないことに警戒していた。彼はジム・ボウイをサンアントニオに送り、様子を探らせた。ヒューストンは、アラモ布教所を破壊し、大砲を撤去するように勧めたが、スミスは反対。アラモは防御力を高めており、砦として使えると主張。テキサス人はコス将軍が置いていった武器を持っていた。
アラモは交通の要所でも待った。
1836年1月19日、ジム・ボウイはアラモに到着。21台の大砲は破壊するには惜しく、ここを渡すぐらいなら死んでもいいとスミスに手紙を書く。
スミスはこの手紙を受け取ると、ウィリアム・トラヴィス(William Travis)大佐を送り、アラモを増強。しかし、トラヴィスは30名の志願兵しか集めることができなかった。
アメリカの志願兵が少しずつ入って(trickled into)きた。Davy Crockettは12人のテネシーからの義勇兵を連れてきた。 James Bohham はアラバマから。Neilli大佐は病気の家族の世話のためアラモを離れ、トラヴィスを司令官に任命するが、トラヴィスとボウイは指揮を巡って仲違いし、それぞれが指揮をとることで合意した。
アラモを守るというボウィの意見にあなたは賛成ですか?反対ですか?理由を説明しなさい
籠城作戦開始
メキシコ軍が近づき、テキサス兵はアラモの増強を急いだ。29歳の弁護士、Green Jamesonは壁を強化。Almaron Dickinsonは、21台の大砲の場所を選ぶ。アラモは布教所であって、砦ではない。アラモの防御には1000人が必要だったが、150名ほどしかいなかった。
トラヴィスらは応援軍を待った。すぐに、メキシコ軍が近づいているという報告が来た。悪天候のせいで、到着は3月半ば以降だと予想していたトラビスは耳を疑った。2月23日、見張りがメキシコ軍を発見。
メキシコ軍が行進してくると、全員がアラモ内に籠城した。
サンタアナは降伏を要求したが、それに対してテキサス人は大砲で返事
サンタアナは「容赦なし(No quarter)」を意味する赤い旗をあげる。これは一人も生かさないことを意味する。
2月24日、メキシコ軍、アラモに砲撃を開始する。トラヴィスは支援要請の手紙(P237)を書く。大砲が何時間もアラモを攻撃。病気だったボウィは2日目には起き上がれなくなりトラヴィスに交代。4日目。トラヴィスは砲撃をやめ、メキシコ軍の一斉攻撃に備えて、弾薬を温存することにする。
リーディング・チェック
テキサス軍はアラモ籠城をどのように準備したか。十分な準備だと思いますか。
アラモ陥落(The Fall of the Alamo)
トラヴィスは暫定政府に何通もの手紙を送った。Bonhamは援軍を求めてアラモを発ったが、3日3日に戻ってきた。Juan Seguinもゴリアド抜け出したが、援軍はほとんど集まらなかった。
3月1日、32人の義勇軍がゴンザレスから到着。夜明けにそっとアラモに入る。
歴史学者は、当時、アラモを守っていたのは約200名の兵と見積もる。一方でサンタアナ側は1800人。
3月3日、トラヴィスはフェニン大佐の援軍がないことをワシントン・オン・ザ・ブラソスにいる暫定政府に送る。
3月6日の早朝。テキサス軍は、メキシコ軍の楽団の音で目がさめる。「El Degiello」は「容赦なし」という意味の曲だった。
朝の5時 4列のメキシコ軍がアラモを攻撃。テキサス軍の砲撃で一時ひるむも、再び4列で攻撃。アラモ内に入ると大砲を取り上げ、内側に向けて発砲した。
煙が消えた頃、防衛軍のほとんど全員が死んでいた。その中には、トラヴィス、クロケット(Crockett)、ボウィ(Bowie)、ボンハム(Bonham)、テハノス(=ヒスパニック系テキサス人)のJuan Abamillo, Juan A Badillo, Carlos Espalie, Jose Maria Espanza, Antonio Fuentes Domacio Jimenes, Jose Torvio Losoya, Andres Navaもいた。メキシコ側の死傷者(casualities)は、約600名と見られている。
アラモで生き残ったのは数人。Almaron Dickinsonの妻Suzanna Dickinsonと娘のAngelina , Ana Salazar Esparzaとその子供達、そして奴隷のJoeなどの数人だった。サンタアナはこれらの非戦闘員(noncombatants)を殺さずに逃した。
サンタアナはアラモの陥落で、テキサス人は反逆を断念すると信じたが、その反対に、アラモは、テキサス人にとって、命をかけても戦うことの象徴となり、「アラモを忘れるな(Remember Alamo)のコールがが、テキサス軍内に響くようになった。
リーディングチェック
どうして、アラモの陥落が、テキサス人を戦う気にさせたと思いますか。
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