2018年6月14日木曜日

11-1 戦争が始まる

要点


  1. ゴンザレスの戦いとゴリアド占拠がテキサス革命の始まり
  2. テキサス軍は、サンアントニオに軍を構え、メキシコ軍と小さな戦いを繰り返した。
  3. テキサス軍は、サンアントニオからメキシコ軍を追放した。

ゴンザレスとゴリアド占拠

1835年には、テキサス人はサンタアナの行動に不満を持っていた。
トラブルを恐れたメキシコの将軍 Domingo de Ugartecheaは ゴンザレスに住む住民に対し4年前にDeWittに貸した大砲を返すように要求。テキサス人は大砲を果樹園に埋めて隠す。

その行動に対し、Ugartechea将軍は軍を派遣し、力づくで大砲を取り返そうとする。それに対してゴンザレスの住民は、どうして大砲が必要なのか言い訳を作り、その間に応援を要請。

応援の要請に多くのテキサス人が答え、ゴンザレスに集結。テキサスの民兵は最低180人。100人は軍人だった。彼らは大砲を掘り出し、メキシコ軍を刺激
「COME AND TAKE IT(取れるもんなら取りに来い)」



10月2日 メキシコ軍が発砲  テキサスが撃ち返し、メキシコ兵が一人死亡
これがゴンザレスの戦いの始まり。この戦いは短かった。
テキサス人の死者はなし。

ゴンザレスの戦いがテキサス革命の緒戦とみなされているが、実際には沿岸地域で1ヶ月前から紛争は起きていた(P227の地図参照)

ゴンザレスの戦いの直後、テキサスの志願兵がゴリアドを占拠
この2つの戦いは、テキサス人の、サンタアナへの反発を示している。

サンアントニオへの行進

ゴンザレスでの勝利で活気付いたテキサス志願兵たちは、軍を作って次のステップに進むことにする。オースティンをリーダーにして、コス将軍をサンアントニオから追い出すことを決定。
しかし、その行程は楽なものではなかった。彼らは重い大砲を置いていかざるを得なかった。

10月末、オースティンはサンアントニオの郊外に軍を敷く。志願兵は600人に上っていた。そこで、コスの支配に苦しむテハノス(メキシコ系テキサス人)の支援を受ける。 Erasmo Seguinの息子 Juan Seguinも軍に入る。

しかし、テキサス軍はまだきちんとした形をなしていなかった。ほとんどが歩兵(infantry)で、メキシコの騎馬兵(Cavalry)との戦いに苦労していた。 オースティンの作戦は騎馬兵を増やすこと。Juan Seguinをはじめとするテハノスは騎馬兵を募った。

オースティンは野営地(camp)の場所にも不満だった。もっとサンアントニオの近くで相手を見張れる場所に陣を構えたかった。そこで、ジム(James "Jim" Bowie)というルイジアナ出身の辺境を歩くのに長けた男を派遣。

10月28日 コスは400人のメキシコ軍を送り、最初の戦い(Mission Conception)
メキシコ軍の方が数においては優勢だったが、ジムが見つけた優勢な場所と銃の性能がテキサス側の方が良かったおかげで、テキサス軍が勝利。

ゴリアド占拠に続く勝利で、オースティン軍の士気は一層高まる。



草の戦い (The Grass Fight)

最初の(Concepcion) の戦いのあと、Austinは軍隊の 基地をSan Antonioの北にあるOld Millに移した。テキサス軍はサンアントニ オを包囲する(lay siege)ことができた。しかし、サンアントニオ内のメキシコ軍には十分な物資があり、包囲しても効果はそれほどないように思えた。しびれを切らした多くの義勇兵が自分の家に帰って行った。残った兵士たちも気温が下がると病気になった。軍のリーダーたちは失望した。

包囲中、Austinは将軍よりも外交が向いていると気づき、アメリカ合衆国のコミッショナーとなる。指揮官にはEdoward Burleson が選ばれた。

1935年11月26日Burlesonの斥候(scout 敵の動静をこっそり探る人 )  耳の聞こえないスミス(Eratus “Deaf” Smith) が、100人以上の銀貨を持ったメキシコ兵と家畜がサンアントニオに向かっていると報告。この噂はテキサス軍に伝わった。 Burleton将軍は、奇襲をかけて銀貨を奪うためにBowie軍を派遣した。

Bowieの軍はすぐにメキシコの兵を打ち負かし、メキシコ兵の積荷を奪ったが、中に入っていたのは(銀貨ではなく)馬のエサ用の干し草だった。この事件はの「草の戦い (Grass Fight)と呼ばれるようになる。がっかりしたものの、サンアントニオ内のメキシコ軍が動物のエサに事欠いていることがわかり、包囲作戦には効果があることがわかった。

サンアントニオ占拠 The capture of San Antonio


Grass Fightの後、Burleson大佐はサンアントニオ攻撃を望んだが、指揮官らの反対にあったため、サンアントニオからGoliadへの後退を命じた。その同日の12月4日、捕らえられたメキシコの士官が連れてこられ、Cos将軍の軍隊が弱まり、組織が乱れていると報告。それを聞いたBen Milan大佐は、サンアントニオに攻め込もうと呼びかけ、300人のテキサス人がそれに応えた。その晩、彼らはOld Millに集まり、Ben MilanとFrancis W. Johnsonがそれぞれサンアントニオ攻撃の指揮を執った。

 1835年12月5日の早朝、テキサス兵はサンアントニオに攻撃をしかけた。攻撃の3日目、Milanは殺されたが、戦いはテキサスが優勢となった。 そして12月9日までに、メキシコ軍はサンアントニオ中心部から押し出され、12月10日にはコス将軍が降参し、テキサスから引き上げることに同意した。

 サンアントニオでの勝利によって、テキサスの人々は、戦いが終わったと確信した。これでCoahuila州から独立して、テキサス内に自分たちの州を作り上げ、求める生活を実現することができると考えたが、サンタアナSanta Annaはテキサスについて異なる計画を立てていた。

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