2018年6月15日金曜日

12-3 ラマール大統領時代 (Lamar's presidency) P265

要点

  1. 大統領として、ミラボー ラマールはテキサスに公立学校を設立する。
  2. ラマール政権は財政危機に見舞われる
  3. ラマール政権はアメリカン・インディアンに対し厳しい政策をとる。
Linnvilleという街がコマンチェ族の襲撃に遭う。1000人のコマンチェ族が街を襲い、住民を殺害し、馬を奪い、街を焼き払った。この襲撃は、平和協定の前に起こった虐殺の復習だった。

ラマール就任

1838年の選挙では憲法に再選が禁止されていたため、ヒューストンは出馬できなかった。でもできていたとしても当選していなかったかもしれない。多くのテキサス人がヒューストンの政策、特に、インディアン政策に反対していたのだ。

1838年、ミラボー・ラマール(Mirabeau B. Lamar)が新大統領に、デイヴィッド・バーネット(David G. Burnet)が副大統領に選ばれた。二人とも、ヒューストンの政策には大反対で、個人的に彼のことを敵視していた。革命の英雄であるラマールは、元詩人で教育に強い関心を持っていた。彼は教育法を可決させると、公立学校のために土地を確保し、大学を将来創設するための土地を確保した。

初めて設立許可書(Charter)を政府からもらったのは私立大学のRutersvillle College。1840年に創立する。しかし、テキサスは資金不足で公立学校も公立大学も設立することはできなかった。しかし、その努力によってラマールは今でも「教育の父」として知られている。

新しい首都

ラマール政権下で首都はオースティンに決まった。ヒューストンは東すぎるとラマールは判断。メキシコの侵入に対応するため西の方、そして、西への発展も目指し、首都を移転した。

Edwin Waller判事もオースティンに到着、一時的な国会議事堂(Captol)も建った。

この移転に不満の声もあった。離れているために守りにくいし、そこはコマンチェ族のテリトリーだったから襲撃に遭いやすいというものだった。

オースティンの辺境は危険だったが、人々の移住が進むと街は発展した。フランス、イギリス、アメリカの外交官も住むようになった。

土地・経済政策

ラマール政権はヒューストンの政策を継承。1839年1月に国会は入植者保護法(Homestead Law)を通過。借金があっても、家と最大50エーカーの土地は保障する、といったものだった。債権者がテキサス人から借金のかたに家を取り上げ売ることを防ぐことができた。

この政策により、ラマール政権下でテキサス共和国の財政は一層悪化した。軍事費などの歳出は増えたのに、歳入は増えなかったため、財政赤字が倍増した。

政府はredbacksと呼ばれる新紙幣を発行した。ところがすぐに価値が下落、3年後には紙切れ同然となってしまった。

リーディングチェック
ラマール政権中の財政問題とはどのようなものだったか。

ラマールのアメリカン・インディアン政策

ラマールはアメリカンインディアンを憎み、テキサスから追放したいと思っていた。ヒューストンとは異なり、インディアンに土地の権利などないと考えていた。

1836年 ラマールはチェロキー族にテキサス内から出て行くように命令 Kelsey Douglass率いる500人の兵との数日間岩たるNechesの戦いの後には100人以上のチェロキー族が死んでいた。その中にはBowles酋長もいた。Caddo族やShawnees族もこの時期、テキサス北東を去った。

コマンチェ族との戦いも激化した。1839年1月、ラマールはテキサス西部にJohn H Moore大佐を送り、テキサス西部のコマンチェ族を攻撃。アパッチ族や他の敵からも攻撃を受けていたコマンチェ族の一派ぺナテカPenateka族はサンアントニオに赴きテキサス人の人質を返すことに同意。

1840年3月19日、約65人のペナテカ・コマンチェ族がサンアントニオの議事堂に到着したが、人質を数人しか連れてこなかった。他の人質は、ほかのコマンチェ族に取り押さえられていたのだ。インディアン社会を理解しないテキサス人は、コマンチェ族を捕虜に。議事堂の中で戦いが始まった。戦いが終わると、35人のコマンチェが新dねおり、その中には12人の酋長、3人の女性、2人の子供が含まれていた。テキサス人も7人死亡。この議事堂の戦い(Council House Fight)によって平和は遠のいた。

ほかのコマンチェ族はこの虐殺を聞いて激怒。捕虜を殺害し、LinnvilleやVictoriaを襲撃し、20人以上の入植者を殺害し、家を焼き、家畜を奪った。

テキサス人は復讐を要請。自警団や兵士、テキサスレンジャーが戦いに臨んだ。コマンチェを1840年8月11日に発見攻撃 このBattle of Plum Creek で130人以上のコマンチェが殺された。テキサス側の死者はひとり。

リーディングチェック
ラマールのアメリカンインディアン政策は? ラマールが達成したかったこととは。

ラマール政策の結果

インディアンとの戦いの勝利の後も、テキサス人はコマンチェ族のことを恐れた、そのため、テキサスの指導者達は、コマンチェをもっと遠くまで追い払うことにした。10月ムーア大佐は、コロラド川の300マイル上流まで攻め、コマンチェの村を見つけ急襲して破壊した。この戦いで、130人のコマンチェが死亡。コマンチェはより西に逃げ、メキシコ人の村を襲うようになっていった。

ラマール政権末期には、ラマールの目標通り、チェロキー族をテキサス東部から追放、コマンチェ族も北部や西部に追放した。投機家や入植者はより多くの土地と安全を得ることができて満足だったが、アメリカン・インディアンにとっては災難だった。

この時期、戦費によりテキサスの借金は、330万ドルから800万ドルに増大した。

リーディングチェック
ラマールのインディアン政策が、アメリカン・インディアンや共和国に及ぼした害とは?





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