2018年6月13日水曜日

10−1 テキサス内の政情不安

要点

  1. フレドニアン革命はテキサス東部に独立した共和国を作ろうとする企て
  2. Mier y Terån がテキサスを周り、アメリカ系移民の影響力が強すぎると結論
  3. 1830年4月6日法が制定され、アメリカ人のテキサス移住が禁止される

フレドニアン革命

1825年、ヘイデン・エドワーズ(Haden Edwards)はメキシコ政府から認められ、エンプレサリオとなり、オースチンとともに、ナコドチェスに移住した。しかしそこにはすでに100年以上前から住むメキシコ系、アングロ系、そしてチェロキー族が住んでいた。

契約上、エドワーズはその土地に住む人々のすべての所有権を尊重することが求められていたが、エドワーズはそのルールに不満を持った。彼は、何人かの元住民の権利(title)を偽造(forgeries)と宣言、すでに土地を持っている人々から追加の料金を取ろうとした。

エドワーズの行動に元からいた入植者は激怒した。翌年の選挙で、エドワーズの義理の息子が市長(alcalde)に選ばれると、元入植者たちは不正(fraud)を疑った。彼らはメキシコ政府に不満を伝え、1826年、メキシコ政府はエドワーズとのエンプレサリオ契約を破棄した。

エドワーズ支持者たちは、新しい市長を逮捕し、職務追放を試みるも、メキシコ政府が軍を送り新市長をサポートする。エドワーズと兄弟のベンジャミンとチェロキー族を含む支持者たちはメキシコの支配からの独立を宣言 1826年12月21日、フラドニアン独立宣言を発行した。

多くのテキサス人は、テハノス(ヒスパニック系)もアングロ(白人系)もこのフレドニアン革命に反対。スティーブン・オースティンはメキシコ政府の決定に賛同し、民兵(militia)を招集。1827年メキシコ軍と民兵が向かっていることを知った反乱者たちは逃走。共和国は崩壊した。

リーディングチェック
どうして、フレドニアン暴動が起こったか。

ミエル・イ・テラン(Mier y Teran)の報告書



フレドニアン暴動は小さな出来事だが、メキシコ政府はテキサス領内のアメリカ人の人数が気になり始める。
メキシコ政府はミエル・イ・テランを調査に派遣
ミエル・イ・テランは1828年ラレド(Laredo)とサン・アントニオに赴きオースチンと会う。オースチン、メキシコへの忠誠を誓う。
ナコドチェスを訪ねたミエル・イ・テランは、テキサス東部では、アメリカ人入植者とテハノス(Tejanosメキシコ系住民)の比率が10対 1と、アメリカの影響力が増大していると報告
テキサスにおけるアメリカの影響力を抑えるために、ミエル・イ・テランは、テキサスとアメリカの貿易を増やすこと、テキサスに駐 留するメキシコ軍の規模を拡大すること、より多くのヨーロッパ系、メキシコ系住民の移住を促進することを提案。


1830年4月6日法

The Law of April 6, 1830: 183046日法

 ミエル・イ・テランの報告書をを読んで、メキシコ政府はテキサスにおけるアメリカの影響力を厳しく制限する法律を通過させる。
 限られたエンプレサリオ(オースチン、Green DeWitt)などだけが契約続行。不法アメリカ人をテキサスに入れず、国境沿いに軍と役人 を配備
アメリカ人はエンプレサリオにはなれなくなったが、メキシコ政府はメキシコ人やキリスト教ヨーロッパ人をどんどん入植させて、エ ンプレサリオにする。
アメリカ人の移住制限だけでなく、この1830年4月6日法は、アメリカからの輸入製品に関税をかけた。テキサス内のアメリカ製品の 値段が上がる。テキサス人関税を払う羽目に。
この法律にテキサス人は不満。移民は増えたが、関税は経済の足かせになる。イギリス系住民も移住制限に不満。オースチンもこの法律を嫌悪。政府に対し、テキサスを子どもか奴隷のように扱っていると表明移住を手助けしたテハノス(Erasmo Segui, Jose Antonio Navarro, Francisco Ruiz)らも、アメリカ移民はメリットがあると法律に反対

テキサスの声
アメリカ移民がテキサスに来るメリット
1)原住民に様々な物資提供 2)インディアンの侵略から守ってくれえる、3)ニューオリンズやニューメキシコとの交通や商業発展 4)北アメリカ政府の考え方はヨーロッパからの移民よりメキシコ人に適合しやすい。 


この章のテスト対策はこちらのクイズレットをご覧ください。

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