- テキサスの今後と、暫定政権を立てるために話し合いがなされた。
- すぐに新しい政府内で紛争が起こった
独立に向けた議論 (Debating Independence)
オースティンとバールソン(Burleson)がサンアントニオで戦っている間、メキシコとの関係を話し合うための協議会(Consultation)が開かれていた。
1835年11月4日 協議会が始まり、戦争派は独立を求め、反戦派はメキシコに従うと主張。
3日後の1835年11月7日、彼らはすでに起こってしまったメキシコとの戦争を正当化する宣言を発表。
テキサス人は反乱者ではなく、1824年州憲法で認められている権利を守っているだけだ、メキシコ政府がこの権利を否定するのなら、テキサスは独自の政府を樹立する、と宣言。
その後、協議会は暫定(provisional)政府を樹立。
ヘンリースミス(Henry Smith)を知事に選出。
議会(General Council)を設立。
アメリカとの調整役(Commissioner)にスティーブン・オースティンを任命。その役割は、志願兵の募集と、軍事資金の調達だった。
アメリカ式のプロの軍を創設。元政治家で軍人のサム・ヒューストンを軍の司令官にした。しかし、軍事金はなく、兵隊も素人ばかりだった。
議会は海軍の創設を承認。商船に敵の船の攻撃を許可した。
暫定政府 ( The provisional Government)
ところが、政権内で、戦略の違いから、すぐに紛争が発生。
独立派はリオグランデ川(Rio Grande)を渡ったメキシコ国内のMatamorosの攻撃を要求。
サム・ヒューストンは軍資金不足から反対。
Francis Jonson と James Grant 対 サム・ヒューストンとヘンリースミスの構図
議論が収まらず、フランシスジョンソンとグラントは、マタモロスへ進軍
その間に、ヒューストンと ナコドチェスのWilliam Goyenはテキサス東部に行き、チェロキー族との和平条約を結ぶ。ウィリアムは長年チェロキーとの折衝役で、ヒューストンもチェロキーと生活をともにしていたことがあるので、交渉は成功。革命に協力してもらえることになる。
暫定政権はうまくいかなかった。明確なゴールや優秀なリーダーシップに欠けていた。スミスの反対を押し切って、議会は1936年に新たな協議会を開くことを決定した。
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