2018年6月13日水曜日

8−4 エンプレッサリオとテハノス

要点
メキシコの1924年州憲法のもとでは、テキサスはCoahuila州と合併していた。
メキシコの新しい植民地法で、エンプレッサリオ(Empresario)が、テキサスの入植地に入植者を連れてこられるようになった。
多くのテハノス(ヒスパニック系テキサス住民)が、アメリカ合衆国からテキサスへの移住をサポートしたが、その後、両者の関係は緊張する。

メキシコの新憲法

メキシコのリーダー Agustin de Iturbideが力を失うと、メキシコでは政変が起こり、1824年州憲法が採択される。

新しい憲法により、メキシコは共和国(republic)となった。 政治は選ばれた大統領とそれぞれの州政府に任させた。このシステムを連邦制(federalism)という。19の州と5つの領地に分けられ、テキサスは、Coahuilaと一緒にされ、Coahuila y Texas州となった。

テキサス人の多くはこの合併に不満だった。Coahuila郡の方が人口も多く力が強かったからだ。

メキシコの新しい植民地法

Coahuila y Texas州は独自の移民法を持っていた。Baron de Bastropらは、テキサスの発展を望んだ。アメリカ人入植者がインディアンの襲撃から守ってくれることを望んだ。また、入植者が増えると、土地の価値も上がると思った。「1825年植民地法」がメキシコ国会を通過すると、テキサスの入植地への移住が加速した。

新植民地法のもと、多くの人々がスティーブン・オースティンの後に続き、エンプレッサリオEmpresarioz(新しい入植地の指導者)になった。ビジネスピープルがエンプレッサリオになり、67,000エーカーの土地を受けとり、200家族をテキサスに連れて行った。家長は4428エーカーを、1エーカーあたり1ペニーで買うこと亜できた。新しい入植者は入植後10年は税金を納める必要がなかった。条件はただ一つ、入植者はキリスト教徒で、良きメキシコ市民になることだけだった。このエンプレッサリオ制度によってテキサスへの人の移動の波が起きた。

エンプレッサリオ植民地

1825年から1832年の間に、メキシコ政府は20数人とエンプレッサリオ契約を結んだ。ほとんどのエンプレッサリオはアメリカ人だったが、ヨーロッパ人もいたし、Martin de Leonのようなテハノ(メキシコ系の)リーダーもいた。

それぞれの植民地については、177ページの地図を参照のこと。

テハノのリーダーシップ

エンプレッサリオ制度によってテキサスの人口は急増し、1834年には推計24700人が入植していた。テハノのリーダーはメキシコ人の入植を増やそうとするが、なかなか増えず、アングロ系(白人系)入植者がテハノ系人口の3倍になった。

入植当初、テハノスは、テキサスの人口が増えることを熱望した。綿花産業の発展が経済発展につながると考えたからだ。

この綿花産業がテハノスの意見を2分する。綿花産業には奴隷が使われており、Seguin やAntonio Navarroといったリーダーは奴隷は必要と考えたが、他のリーダーたちは奴隷に反対した。

入植が進むとテハノのリーダーと他の入植者の間で紛争が起こった。De Leonの植民位置からいなくなった家畜がDeWittの土地から見つかった。このようなことが暴力につながったが、それを止めた人物が二人いた。スティーブン・オースティンとラファエル・アントニオ・マンチョラだった。

テハノの人口は少なかったが、Seguin, Navarro, Mancholaといったテハノのリーダーたちは州でも重要な地位にいた。


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