2018年6月17日日曜日

14-2 メキシコとの紛争 (Conflict with Mexco) P297

要点
ラマール大統領は、サンタフェをテキサスに加えたいと望む
メキシコ軍はテキサスを時々襲撃した。
1845年、メキシコはテキサス共和国を承認した。

時代背景
サンタ・アナはワシントンDCに囚人とした送られ、アンドリュー・ジャクソン大統領に面会した後、メキシコに帰る。1839年には国政に復帰、テキサス奪回を決意する。

サンタフェ遠征

当時、テキサスとメキシコの国境は確定していなかった。1836年の共和国国会では国境をリオグランデ川と確定したが、そうするお、メキシコの国土は半減する。ニューメキシコに住む人々はメキシコに忠誠を誓っていた。

ラマール大統領は任期中、リオグランデ川東部の人々が、自分の土地がテキサス共和国のものであると認めるように、サンタフェの住民を3人選び、周りの人々を説得させる。

ラマールはテキサス・サンタフェ間の貿易路を整備。
1841年6月、サンタフェ探検を実行。320人、20万ドルの輸出品とJose Antonio Navarroなどの有名人をHugh Mcleed率いるテキサス軍が護衛した。

この大遠征は開始直後からトラブルに見舞われた。アメリカン・インディアンの襲撃、食糧不足、疲れ果ててニューメキシコに着いた先にはメキシコ軍が待ち受けていた。

1841年10月、テキサス人は逮捕され、歩いて1200マイル離れたメキシコシティへ連れて行かれた。「歩けなくてフラフラになった男をメキシコ兵が射殺するので、こんな遠くまで歩くしかなかった」と生き残りの一人が証言している。テキサス人は翌年の4月まで投獄される。

唯一のメキシコ系テキサス人(テハノス)のホセ・アントにオ・ナバロは、テキサス革命でテキサス側についたことで、裏切者として死刑宣告。他のテキサス人よりも長い間投獄される。しかし、その後、脱獄し、テキサスに逃げ戻り、1845年、テキサス併合集会にギリギリ間に合い、唯一のテハノ代表として署名する。

ラマールのサンタフェ遠征は失敗だった。
60人以上のテキサス人が命を落とし、大金を失い、メキシコがまたテキサスに関心を持つようになり、テキサスとメキシコの紛争が再燃した。

リーディングチェック
ラマールがメキシコ遠征をした理由は?そして失敗した理由は?

テキサス海軍 The Texas Navy

1840年 メキシコのユカタン州がメキシコ政府に対して反乱。ラマールはこれを好機と見る。ムーア提督Commodor Edwin W. Mooreの海軍を送り反乱を支援。ひと月8000ドルを得る。
ヒューストン2期目が1841年から始まると、ヒューストンは海軍を戻し、財政支出を引き締め、軍艦をガルベストンに戻して、売却することを命令。ガルベストンの住民は売却に反対。軍艦は売られることはなかったが、可動することもなくなった。

古文書戦争 The Archives War

ラマールの行動に起こったメキシコ政府は1842年3月、Rafael Vasques将軍率いる軍隊で三・アントニオを攻撃。同年9月には、Adrian Woll将軍と1400人の兵士がサンアントニオを占領。10人の子供を持つ住民Mary Maverickが当時の様子を書き記す。

砲弾の音ので目を覚ました。霧が晴れると囲まれていた。

Woll将軍は数人の捕虜をとってサンアントニオの奥へ進軍。Jack Coffee Hays が率いる自警団がWollとSalad Creekで会戦。メキシコまで押し返す。Haysはいまでも、勇気、能力、忠誠心でテキサスレンジャーの鑑(かがみ)として認められている。彼はその後、米墨戦争でも大活躍する。

ヒュースオンは1842年12月、テキサスレンジャーズに命じ、古文書をワシントン・オン・ザ・ブラゾスに移すことを指示。オースティンの住民は、自分の都市が首都でなくなることを恐れ反対。Angelina Eberlyらは、古文書を馬車に移そうとしている作業員に発砲。この紛争は古文書戦争と呼ばれ、その後、古文書はオースティンに残る。

ミエル遠征 The Mier Expedition


1842年11月、ヒューストンはアレクサンダー・サマヴェル将軍 General Alexander Somervellをリオ・グランデに、Woll将軍に捕まった人質を取り戻しに行かせる。

サマヴェルがリオグランデ川についた時、彼は任務遂行に必要な十分な物資や人員がないことに気づいた。彼は300人の兵士に帰還を命じたが、フィッシャー大佐Colonel William S Fisherと兵士たちはその命令に背き、メキシコを侵略。Mierという小さな街にむかった。これはミエル遠征と言われる。

12月23日、テキサス軍は、ミエールに入り、物資を要求。街の人は翌日提供することに合意した。翌日物資が供給されないと、テキサス人は街を襲撃。そこには、900人のメキシコ兵が待ち構えていた。戦いが1日続いたあと、100人のメキシコ兵と30人のテキサス兵が死傷した。物資不足で、テキサス側は降参した。

捕らえられたテキサス兵はメキシコシティまで行進させられた。200人は途中で脱走したが、食料もなく、山々を歩き、ほとんどは死ぬか、再び捕らえられた。再び指導者隣っていたサンタ・アナは10人に一人を射殺することを命令。176名の囚人から1割が豆で選ばれた。生き残りの証言によると、白い豆をひいたら放免。黒い豆は死。黒い豆を挽いたものは目隠しをして銃殺される。18人が脱走。20人が獄死。他は放免。1844年9月にはミエール遠征の囚人を全員釈放した。

ミエル遠征はメキシコとテキサス共和国の最後の戦い。イギリスとフランスの努力でメキシコとテキサスの関係は少しずつ回復した。ヨーロッパ諸国がテキサスを支援するのには理由があった。ヨーロッパ諸国はテキサスがライバルのアメリカ合衆国の一州になるよりは、独立していて欲しかったのだ。そのため、ヨーロッパ諸国はテキサス併合を必死になって阻止した。もしも、メキシコがテキサスの独立を認めれば、テキサスがアメリカへの併合を求めなくなると考えたのだ。

1845年春、イギリスとフランスの外交圧力で、メキシコはついにテキサスの独立を認める。その見返りに、テキサスもアメリカへの併合はしないことになった。

メキシコの指導者たちも提案の内容に同意。ヨーロッパ同様メキシコも、テキサスの併合を阻止したかったからだ。メキシコはアメリカ合衆国と国境を接するのは避けたかった。しかに、テキサスの独立を認めた頃には時すでに遅し。テキサス住民はアメリカ併合を心に決めていた。

リーディングチェック
テキサスがどの国にも併合しないことは、メキシコにとってどんな意味があったのか。







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